解説「菩薩の生き方」第二十六回(4)

【本文】
種々の雑談、現に起こりつつある雑多の事柄、好奇心を誘うあらゆる現象――これらに対して生ずる興味を殺すべきである。
土を砕き、草を刈り、畦(あぜ)を作る等の行いは(出家修行者になったからには)無用となった。如来の定められたおきてを思い起こし、それを(破ることを)おそれ、直ちに放棄せよ。
動こうという願いが起こり、語ろうという願いが生じたときには、自己の心を反省し、まず心をしっかりと結びつけて(平静なる状態においてなせよ)。
もし自己の心が愛著に傾き、あるいは憎悪に傾くのを見たならば、その際には、行なうべからず、語るべからず、木材のようにとどまるべきである。
【解説】
原始仏典を見ると、草を刈ったり土を耕したりすることだけではなく、様々なことを、お釈迦様は出家修行者に対して禁止しています。シャーンティーデーヴァがこの教えを説いたときは僧院で修行する出家修行者でしたから、それらの規律に従って生きることをまず表明していますね。
もちろん、今の我々は出家修行者ではないので、若干事情は違っていますが、お釈迦様が説いた戒なども原始仏典などから学び、守れるところは守っていく姿勢は必要ですね。
基本的な五戒や十戒、あるいはヨーガ・スートラで説かれる禁戒・勧戒、あるいは様々な教えを学び、まず自己の生きる道、なすべきこと、なしてはならないことなどをしっかりと学び、認識すべきです。
そして、さあ、何かを自分がしゃべろうとするとき、あるいは何かの行動に移ろうとするとき、何も考えずにぼーっと、あるいは興奮した心で行なうのではなく、まず平静な心を保ち、その上で自己の心を観察しながら行ないなさい、と言っていますね。
そして観察の結果、自分の心が愛著に傾いたり、憎悪に傾いたりしているのを発見したら、行動にブレーキをかけ、しゃべるな、行為するな、と言っているのです。木材のようにあれと。
そのように愛著や憎悪に支配された心の状態というのは、何を話すにも行動するにも適していないのです。そのような状態で行動を起こしても、ただ自己を地獄に落とす悪業を積むだけです。だからそのような時は、木材のように一切の自己の言葉や行動を停止すべきなのです。
もちろん、そこから自己の心を反転させ、真理に基づいた、慈悲に基づいた状態に戻してから行動ができればベストです。しかしなかなか戻らないようだったら、戻るまでは何もすべきではありません。
そして、どのようなときに行動をストップし、木材のようにあるべきなのか、その具体例が次から挙げられています。
はい。まあ、これも読んだとおりですけどね。まず最初の方に書いてあるのは、さっきも言ったけども、お釈迦様が、いわゆる律っていうわけですけども、出家した者に対して、数百個の律を作ったわけだね。で、そこには、ここに書いてあるように、例えばもともと出家した者は、農作とか、畑を作って耕すとか、そういうことをやっちゃいけないっていう戒律があるんだね。だからそのことをここでは代表的に出してるわけだけど。つまりさまざまな、出家修行者がやっちゃいけない細かいことが、ほんとにたくさんあると。それらをしっかりと記憶して、それにのっとって生きなさいと。
でもここにも書いてあるように、われわれは別に原始仏教の出家修行者ではないと。だからわれわれの場合は――われわれっていうか、時代によって、あるいは環境によって違ってきますよね。われわれの場合は、そうですね、いつも言うように、バクティヨーガと、それから菩薩道を中心に、いろんなヨーガを総合的に学んでると。で、当然それは、この現世、日本っていう現世的な世界において、それらを実践しようとしてると。そこにおいて、つまり原則的に説かれてるバクティヨーガの教え、あるいは菩薩道の教え、そして原始仏教等の基本的な仏教の教えがあると。あるいは基本的なヨーガの教えがあると。で、その中で例えば、特にカイラスとかの場合、いろんな本とかで、勉強会とかで、いろいろ細かく説いてますよね。「はい、こういうことはやっちゃいけませんよ」と。「こういうことはやりましょう」と。
まあカイラスの場合は別に、項目として戒律をガーンと設けてるわけじゃないけども、でも、いつも教えを聞いてたら分かるよね。「これはしっかり守るようにしましょう」と。あるいは考え方とかに関しても、あるいは言葉に関しても、やっちゃいけないこと、やんなきゃいけないことっていうのはだいたい指針は出されてると。だから現代の皆さんの場合、それを守ればいいわけだけど。
はい、そして、そのように守るべきこと、やっちゃいけないこと、あるいはやるべきこと、これをしっかり学んで、それを覚えて、そして、「それを(破ることを)おそれ、直ちに放棄せよ」ってあるけども、つまりそれをもししてしまった場合とか、そういうときはただちに放棄せよと。
「動こうという願いが起こり、語ろうという願いが生じたときには、自己の心を反省し、まず心をしっかりと結びつけて(平静なる状態においてなせよ)。」
はい、これは解説にあるように、「何かを自分がしゃべろうとするとき、あるいは何かの行動に移ろうとするとき、何も考えずにぼーっと、あるいは興奮した心で行なうのではなく、まず平静な心を保ち、その上で自己の心を観察しながら行ないなさい」と。
はい、これはこのままですけど、つまりわれわれはボーッとして、あるいは考えないで行動したり言っちゃったりして多くの失敗を犯してるよね。そんなつもりじゃなかったんだけども、人を傷付けることを言っちゃったとかね。そんなつもりじゃなかったんだけども、ついなんか人の悪口言っちゃって、誰かと誰かの仲を裂いちゃったとかね。あるいは、そんなつもりじゃなかったんだけどもつい悪業を犯しちゃったとかね。いろいろありますよね。だからそうならないように――この間ちょっとブログとかにアップしたシヴァーナンダの教えとかでもあったよね。「語る前に、あるいは動く前に、三回考えなさい」とかね。ちょっといったん考えてからやる。「これはオッケーかな?」と。「これは真理に根付いてるだろうか?」と。あるいは「グルの意思や、あるいは四無量心に基づいてるだろうか?」と。「理想や教えに反してないだろうか?」と。
実際には毎回三回考えなくてもいいかもしれないけど、いったんストップ、いったんちょっと置いて。オッケーかなと。置いて、語ると。あるいは行動すると。
もちろんね、最高の理想は、そんなこと考えなくても、流れるように、スムーズに、教えどおりの実践ができると。これは最高だね。これはちょうど、武道とかの型が身に付いちゃった状態ね。型が完璧に身に付いたことによって、何も考えなくてもその型の演舞が非常にスムーズにできると。でもその前の段階では一個一個チェックしなきゃいけないよね。「あれ? これはちょっと間違ってないかな?」と。最初はぎくしゃくしながら行なうと。で、それと同じように、教えと今の自分の心っていうのはかなり乖離してると。かなり離れてると。よって最初は一個一個チェックして。
だからいつも言うように、特に最初は緊張してガチガチでかまわないんですね。「これ、教えどおりかな?」と。でさ、だんだんだんだん修行が進んでくると、あまり考えなくても正しい選択ができるようになってくるんだけど、でもそこでも、なんていうかな、油断しないように。毎回毎回ガチッガチッて考えなくてもいいかもしれないけども、でもちょっと気を付けつつ、自分の心を見つめながら、暴走しないように。ちょっと高をくくって、「おれは結構真理が根付いてるから」って思ってると、もうパーッていつの間にか悪業積んじゃったりとかね、いつの間にか相手を傷付けることを、つい、心がふっと甘くなったときに言っちゃうかもしれないよね。だからそれはほんとに慎重に考えて、何かをなす前に、あるいは言う前に、考えて行ないなさい、というところですね。
はい。そして、観察した結果、「さあ、大丈夫かな」って観察したら、大丈夫じゃなくて、愛著や憎悪、つまり悪い方向に行きそうだっていう場合は――これはこの『入菩提行論』の代表的なフレーズ、有名なフレーズの一つとして、この「木材」が出てきましたね。「木材のようにあれ」と。
この「木材」って、素晴らしい、面白い言葉だよね。とてもこれは、わたしも好きなんですけど。つまり、木材だよ。木材。もっと言えばね、材木です(笑)。木材よりも材木の方がいいかもしれないね。木材っていうとなんか、ちょっと、なんていうの、性質的なイメージになるけど、材木っていうと物質ですよね。うん。そういう感じ。材木。
つまり何を言いたいかっていうと、完全に無機質な、ただの物です。そういうイメージね。ただの物、材木であると。なんの意志も持たない材木。なんの動きもしないし、意志も持たない材木にガッてなるっていうことだね。
もちろん、ここに書いてあるように、そうじゃなくて、心が悪い方向に行きそうだけども、グーッと変えて、いい方にチェンジできるならそっちの方がいいです、もちろんね。当たり前だけど。別にわざわざ木材にならなくていい。いい方にできるならいいんだけど、できないときもあるよね。「あ、これ、ちょっとブレーキが掛からない」と。「どうしてもこのままだと悪い方に行ってしまいそうだ」っていうときは、もう、「木材!」と。ストップ。完全に動かない石人形のようにバッてなればいいわけだね。はい、これがこの教えね。
はい。で、このあとにその木材になるときのいろんな具体例が出ますよと。
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