解説「菩薩の生き方」第二十六回(1)

2018年9月19日
解説「菩薩の生き方」第二十六回
はい、今日は『菩薩の生き方』の続きですね。これは、いつも言ってるように、シャーンティデーヴァの、ある意味、仏教の最高の聖典の一つといってもいいくらいの聖典である『入菩提行論』。で、これをわたしが昔、書き下ろしという感じで解説したものですね。ですから、その勉強会っていうことになるので、解説のさらにまあ解説っていうかな。その内容をしっかりまた復習すると同時に、細かい部分もちょっと付け足していくような感じになると思います。
【本文】
心の狂象は、法の思念という大きな柱に縛り付けられて、それから離れないように、懸命に監視されるべきである。
「私の心はどこに転ずるか」と、サマーディのくびきを、瞬間といえども投げ捨てることのないように、反省すべきである。
【解説】
心を狂った象にたとえるのは前にも出てきましたね。我が心は、狂った象のように、いついきなり制止を無視して荒れ狂い、我々を地獄に引きずり落とすかもしれません。
だからこの心という狂象を、「法の思念」という柱に、しっかりと縛りつける、結びつけるのです。もうそれは、頑丈な鎖で結びつけるようなイメージでいいでしょう。つまり常に法、すなわち真理の教えを思念し続けることで、心が間違った方向に向かわないようにするわけです。
くびきというのは、本来は牛の首にかけて車を引っ張らせたりする道具ですが、このたとえでは、心の狂象が暴れないように束縛している縛(いまし)めみたいなイメージですね。それはサマーディであると。ここでいうサマーディというのは、広義のサマーディで、つまりたゆまぬ精神集中という意味でしょう。たゆまぬ精神集中を、瞬間といえども外さずに自己の心に向け続け、自分の心が悪のほうへと向かわないように監視し続けるというわけです。
はい。これはまあ、読んだとおりですけども、こういうイメージって大事なんですね。イメージっていうのは、われわれは意識的にかあるいは無意識的にか、よく、何かを考えるときに、イメージっていうものを持っています。で、そのイメージがある程度、確固とした、あるいはうまく心に――心を鼓舞するような、あるいは心に何か刺激を与えるようなイメージである場合、結構われわれはそっちの方に心を向けやすかったり、あるいは思い出しやすかったりするわけだね。
はい。で、ここでは一つのイメージとして、「心というのは狂った象である」と。つまり、もともとが非常にコントロールが難しいと。
もちろんこれは皆さん修行してからもそうだろうけど、修行する前とかはそれはよく感じてるかもしれない。自分の心がもうコントロール不能になると。コントロール不能になるっていうのは、ほんとにもう、発狂したような状態のときもあるだろうけど、そこまでいかなくても、つまりほんとは「これは駄目なんだよな」と思いつつも、どうしてもそれをやってしまうとかね。あるいはどうしても、この人に悪い気持ちを持っちゃいけないのに、悪い気持ちを持ってしまうとかね。いろいろありますよね。つまりわれわれの意志とはまた別に、この心というものは、あちこちと暴れ回ると。
で、前の方でも出てきたけど、その狂象っていうのは、つまり狂った象っていうのは――これはつまりインドの話なので。インドっていうのはもちろん、象というのが大変ポピュラーな、そして――そうだな、現代の一つの利点っていうのはね、利点――つまり利点であると同時にマイナスポイントでもあるんだけど、インターネットその他の情報網の発達により、つまり、昔だったらあまり共感できないような海外のいろんなイメージ、現象も、われわれは見ることはできると。で、そのイメージを共有することができる。つまり悪い意味でもあるっていうのは、余計なデータも入っちゃうからね、ちょっと悪い意味では駄目なんだけど。でもこの仏教がつくられたインドの一つのイメージをわれわれは、現代では、もちろんインドに行ったことある人はインドに行ったときのイメージ、あるいは、ネット等で情報で見ることもできると。で、なんで今それを言ったかっていうと、前にわたしも、フェイスブック見てたら、暴れ回るインド象の映像が出てきて。あれ、すごいんですよね。もう、なんていうの、重機とかつぶれるんですよ(笑)。重機みたいなすごいのが普通につぶれると。あるいはもう鼻でふっ飛ばされて、もう車とかほんとに何台もぺしゃんこになると。ちょっと、体験してないわれわれ日本人としては、「え、ここまで象ってすごいんだ」と。つまりそれは、まさに狂象、おそらく発情とかして暴れてる象ですよね。その映像をちょっとわたしも最近見たことあるけど、おそらくそういうイメージ。つまり象っていうのは、調教されておとなしいときはいいけども、じゃなくて発情したりして全く手に負えなくなると、もう、ちょっと、なんていうかな、何もできないと。すべてが破壊されてしまうような。
で、これと同じイメージで、われわれの心が、狂象のように狂って暴れることによって、われわれは地獄に落とされるんだと。もう、つまりしゃれになんないっていうことだね。心がガーッて乱れて、ちょっと友達とうまくいかなくなっちゃいました――こんなくらいだったら別にそんな、どうでもいい話だけど。じゃなくて、心が暴れて、わけ分かんないこと、悪業をいっぱい積んじゃって地獄に落ちると。これがわれわれにとっての大変な、友であると同時に、大変な敵である心っていうやつですね。
で、つまりここで象に例えられてるのは、つまりインド人は当然、そうじゃなくてなんとかその象を調教しようとするわけですね。だから同じようにわれわれもこの心っていう象を調教しなきゃいけないと。
はい、そしてここでの例えは、「大きな柱に縛り付けられて、それから離れないように、懸命に監視されるべきである」と。
はい、まずここのイメージは、いいですか、調教されてたらオッケーですよ。調教されてるっていう状態は、皆さんが修行が進んで、もう心自体がほんとに寂静で、真理しか考えないみたいな状態ね。これ、調教された心ね。これならオッケーなんだけど、そこまでいっていない場合、まだ暴れると。あるいはいつおかしくなるか分かんないと。このような状態の場合は、しっかりと柱に、「大きな柱に縛り付けられて、それから離れないように、懸命に監視する」と。
そしてその柱イコール、法の思念であると。つまり教えを思念する。まあ念正智の念ですね。ひたすら教えのことを考えることによって――もう一回言うよ、イメージね――この心っていうばかなやつが「うわー!」って暴れ回ってると。で、ここにガーンって柱を立てると。で、ここで「大きな柱」って書いてあるのは、当然それは、弱かったら駄目だからね。細かったら折れちゃう。あるいは、これもよくある例えだけど、この柱は、つまりこの杭みたいなものは、深く地面に刺さってなきゃいけない。浅かったら、象が暴れたら抜けちゃうよね。つまり、われわれの心に深くこの法、あるいは帰依とかいうものがグーッと深く刺さってなきゃいけないんだね。ちょっとぐらい、この間みたいな台風が来ても、あるいは象が暴れても、絶対に抜けないような柱をつくんなきゃいけない。で、それに、まあ、ここで書いてるように、頑丈な鎖でその心の象を結び付けると。そのイメージ。
はい、「それから離れないように、懸命に監視されるべきである」ってあるけど、つまりそれは――しかしまだわれわれの、さっき言った、法がしっかり心に根付いてるのかどうか、あるいはこの法に心を結び付ける鎖がちゃんと強いのかどうか。これは実はまだ、心もとないところがあると。まだあまり法や帰依が根付いてない人もいるだろうし、あるいは法や帰依が根付いてるけど、それに心を結び付ける鎖が弱い人もいると。よって、いつ心が鎖を切って暴れだすか、あるいはいつその法の柱を抜いてしまうか分かんないわけだね。よってそれを監視し続けると。
で、この監視することイコール、言葉の定義でいうとね、正智ですね。
もう一回言うよ――法を念ずる、これが念です。そして、心がその法から外れてないか監視する――これが正智です。それを合わせて念正智っていうわけですね。言葉の定義でいうとね。はい、これがこのイメージですね。
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