解説「菩薩の生き方」第二十四回(11)

エピソード二.
あるとき僧は、僧院で配られるヨーグルトの配給の順番を待っていました。並びながら僧は心の中で、「自分の番が来るころには、ヨーグルトのおいしい部分はなくなっているかもな」と思いました。するとそのとき、僧はまたハッと気づきました。
僧の番が回ってきたのですが、僧はお椀を逆さにして、ヨーグルトを受け取りませんでした。そしてこう言いました。
「わしはもう結構。わしのいやしい心が、もうヨーグルトを食っちまったもんだからな。」
はい。ヨーグルトの配給ね(笑)。ヨーグルトの配給、つまり、おそらくこれは僧院なので、多くの僧がいて、僧院っていうのはシステムがもう確立されていて、はい、朝ですからお茶を配給しますよと。あるいはツァンパとかそういった食べ物を配給しますよと。あるいはヨーグルトを配給しますよと。で、そういう感じで並んでいましたと。で、おそらくヨーグルトですから、そのお寺で自家製で作ったヨーグルトがあり、それをまあ、砂糖とか入ってるのかどうかわかんないけど、いい部分と、ちょっと水っぽい部分とかあるかもしれない。で、いい部分っていうかな、ちゃんとした部分がずーっと配られてるから、うしろに並んでる自分としては、「ああ、自分の番が来るころには、もうあのすごくおいしい部分はなくなってるかもしれない」と。「自分の番が来るときにはまずい部分しか残ってないかもしれないな」と。もっと言い換えればですよ、ここで軽く書いてあるけど、もっと言い換えれば、「なんで彼らばっかりおいしい部分を食べて、おれはまずい部分を食べるのかなあ」みたいな、こういった発想ね。これが湧いたと。これも、つまりそのようなことを考えてるときは念正智ができていない。
――でもこの僧は当然、素晴らしいっていうか、そこで気付いたのは素晴らしいよね。普通はもっともっと進むかもしれない。「くそー! もういつもあいつら、おいしいの食べたいからって先に並びやがって」とかね。「明日はおれが先に並ぶぞ」とかね。計画を立てたりとか、なんかいろんなものが膨らむかもしれない。でもこの人は、そこまではいかないけども、「ああ、わたしのところにはあんまりおいしいものが来ないかもな」ぐらいまでは考えちゃったと。で、ハッとしたと。ハッとして、「やばい、やばい」と。「こんなことを考えるのは貪りだ」だけではなくて、それはまさに自分の罪であり――それはさっき、盗もうとした腕を切ってくれっていうのと同じで、まさにこのような悪しき心を考えた心には罰を与えなきゃいけない、あるいは修正しなきゃいけないと。その真剣な心によって、ヨーグルトを受け取らず、「わしはもう結構。わしのいやしい心が、もうヨーグルトを食っちまったもんだから」と。
この人は、ずっといわれてるように、愚直者といわれてる人だから、この一文もね、ちょっとかっこいい言葉ではあるよね。で、ちょっと知性的な人だったら、こういうのを、知性的に言うかもしれない。うん。知性的なセンスがある人はね、「わたしはちょっと、さっき貪りの心が出ちゃったから、今日は食べるのをやめよう」と。それを誰かに聞かれたときに、「わたしのいやしい心がもう食っちまったもんでね」と、かっこよく言うかもしれないかもしれないけど、この人は多分そういうタイプではない。本気でそう考えてたんでしょうね。本気で、「ああ、今わたしの心は間違っていた」と。「まさにこれは、このいやしい心がもうヨーグルトを食ったのと同じである」と。「だからわたしは、もうこのようなヨーグルトを食う資格はないんだ」ということを、真剣に考えたんでしょうね。これも素晴らしい、ハッと気付いた、しかも真剣にそれを修正しようとした、一つのエピソードですね。
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