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解説「安らぎを見つけるための三部作」第一回(5)

 そして阿修羅でもなかった。はい。阿修羅っていうのは神の一つだけども、まあ人間よりは一応はレベル的には高いんだけど、常に闘争心、つまり周りを敵と見て、それを追い越す、あるいは蹴落とす、こういうことで頭がいっぱいなわけですね。よって阿修羅にも正しく修行するような暇がない。
 そして「長寿の神々」って書いてあるけど、まあいわゆるデーヴァといわれる、欲望の天界。この欲望の天界の神々も、これも何度も言ってるように、逆にあまりの喜び――まあ地獄の逆ですね――あまりの喜びの中にいるがゆえに修行できない。
 だから浦島太郎みたいなもんだね。浦島太郎っていうのは竜宮城に行って、で、乙姫様とそれからいろんな魚たちと――まああの物語は乙姫様と魚、鯛やヒラメが踊ってるとかいう話だけど。鯛やヒラメが踊ってもあんまり面白くないと思うので、あれは実際は天界とかに行ったのかもしれない。つまり天界とかに行って楽しんだと。で、あまりの楽しみによって――まあ実際、あの話は三日間ほど楽しんで、で、帰ってきたらもう数百年とか経ってたっていう話だけど。あれはなんかよく、光の速度に近づくと時間の流れが変わってしまうっていうことで、ウラシマ効果とか名付けられてるけども。まあそういうこともあったのかもしれないけど、あまりの喜びに埋没してしまって、あっという間に時が経ってしまったっていうのはあるだろうね。
 皆さんもまあ――例えば楽しいときっていうのはやっぱり時がすぐに経ってしまう。例えばね、さあ皆さん修行しましょうと。はい、じゃあ、何でもいいけど、マントラ――蓮華座組んでマントラを唱えましょうと。はい、じゃあ一時間ですよと。「うう……えーっ、まだ三十分ですか?」と。「足、痛いんですけど」と。「ちょっと背中痛くなってきました。まだ四十分ですか?」と。「ああ、もうだいぶやったかな」と。まだ一分しか経っていない。でも例えば、はい、じゃあちょっと――まあ皆さんは遊ばないだろうけど、例えば子供とかがいたとして――じゃあ子供の好きなゲームやりましょうと。じゃあコンピューターゲームちょっとやっていいですよと。じゃあ三十分だけやっていいですよと。さあってやってるうちに、一時間、二時間経ってしまう。「いや、もうちょっともうちょっと。もうちょっといいでしょう」と。つまり――コンピューターゲームっていうのはそんなに大したものじゃないけども、われわれが例えば、われわれの考えられる限りの、あるいは考えられる以上の、予想以上の強烈な欲楽、強烈な欲望の満足を与えられたときって、さっきの地獄の逆ヴァージョンで、もうなんていうかな、考えられなくなっちゃうんだね。もう埋没しちゃって。スケールの小さい喜びだったらわれわれは耐えられる。例えば「ああ、おいしいな」と。「あ、でもあまり味覚にとらわれると修行のマイナスになるからこれくらいにしとこうか」とかね。「昨日はおいしいもの食べたから、今日はじゃあちょっと質素にいこうか」――これくらいだったらできる。でもそうじゃない、もうわれわれの予想をはるかに超える欲楽、これがバーッてやってきたときに、もうわれわれはもう頭がおかしくなるんだね。徳があるからもちろんそういう状態になるんだけど、逆に徳があるがゆえにその中に埋没してしまって、何も修行できませんと。
 でもいつも言うようにね、天の神っていうのは人間より上だから、正しく生きることの重要性、あるいは修行の素晴らしさを知らないわけではない。知ってるんです。知ってるけどはまってしまうんだね。ちょっとぐらいいいじゃないかっていうような慢心によって、あっという間に何百年、何千年、何万年と経ってしまってると。これが天のデメリットだね。
 よって、天に生まれるっていうことも、別にいいことではない。どんどん徳が減ってまた下の世界に落ちなきゃいけない。
 しかしわれわれはその天の世界、デーヴァの世界にも生まれませんでしたと。つまり人間に生まれたわけですね。

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