解説「菩薩の生き方」第二十二回(3)

【本文】
それを私が殺さないようにするために、魚などの生き物は、どこに連れて行かれればいいというのだろう。そうではなくて、殺生(などの悪業)を停止する心が得られれば、それで戒の完成は成立する。これが(真実を知る人の)意見である。
【解説】
布施の次の段階、戒の完成について。ここでは殺生が例に挙げられているわけですが、ここでも、戒の完成の意味は、戒を守る自分のほうの問題なのか、その対象の問題なのか、ということについて言及されています。もし我々が、一切の他の生き物と接することがなければ、そもそも殺生も盗みも邪淫も犯しようがありません。しかしそういうことはこの世では不可能ですし、そもそも戒を守るとはそういう意味ではないのです。戒を破る条件となるものを目の前から排除することが「戒の完成」なのではなくて、あらゆる悪業を停止する心が自分のほうに得られれば、その人はどんな状況においても、戒を破ることはなくなるでしょう。それが戒の完成なのです。
はい。これも同じですね。これはわかりますね。さっきの布施と同じで、戒も――ここでは特に不殺生が挙げられてるわけだけども、不殺生、つまり生き物を殺してはいけないと。殺してはいけないといって、殺すかもしれない対象を全部わたしの前から排除すると。これは意味が違うだろっていうことになるよね。そうじゃなくて自分の心を、そのような――殺すっていうか害する、相手を害する気持ちを完全になくすと。
これはあの『あるヨギの自叙伝』でもそういう一節がありましたよね。ヨーガーナンダが、まあインドだから蚊がいっぱいいて、その蚊を叩いて殺そうとするんだけど、一瞬、ハッとして、「あ、まずい」と。「殺生だ!」って思ってやめるんだね。そしたらそれを見ていた師匠のユクテスワが「途中までやったことをなんでやめるんだ」って言うんですね。で、そこでヨーガーナンダは驚いて、「え、先生は殺生をお勧めになるんですか?」と。で、それに対してユクテスワは、「いやそうではない」と。そうじゃなくて、つまり、もうおまえの――まあつまり殺さないことをアヒンサーっていうわけですけども――殺さないっていうか、アヒンサーは実際は「殺さない」っていうよりも「害さない」っていう意味ですね。衆生を絶対害さないと。いろんな意味でね。そのアヒンサーは、「もうすでに破られてる」と。「おまえが殺そうと思った段階でもう暴力、あるいは殺生は発生してるんだ」と言うんだね。つまりアヒンサーっていうのは単純に、実際に物理的に生き物を殺さないっていう意味だけじゃなくて、自分の心から、他者に対する攻撃的あるいは他者を害する気持ち、これを完全に取り除かなきゃいけない。これがアヒンサーですよと。
はい。だから戒律もさっきの布施と同じで――もちろんさ、これも最初は形から入らなきゃいけない。形から入らなきゃいけないんだけど、つまり要点、それが何をしようとしてるのかの要点は、心だっていうことだね。心における、一切のそのようなものを排除しなきゃいけない。
まあ例えば、だから全部同じだね。盗みも同じですよ。例えば、物がない状況にいたら当然盗まないですよね。当たり前ですけどね。盗みたい物が全然ない状態だったら盗まないよね。うん。でもそういう人が例えば自分の貪りの心を刺激されるようなところに行ったら、もしかすると盗んじゃうかもしれない。まあ日本人は――人によるか。わたしも小さいころとか小さな盗みとかやったことあるけど、一般的には日本人はあまり盗みとかしないかもしれないけど、ある状況に置かれたらやっぱり、心に貪りが残ってたら盗んじゃうかもしれない。あるいはあからさまな盗みじゃなくても、勝手に使うとか、あるいは返さないとか、そういうことをやってしまうかもしれないよね。それはただ環境に守られていただけであって、自分の中の貪り、あるいは他者のものを侵害してもそれは自分がメリットがあればどうでもいいっていう気持ちね。この気持ちを完全に排除しない限りは、完全に盗みの戒律を守ったっていうことは言えないんだと。
はい。邪淫ももちろん同じですね。例えば、もちろん昔の仏教とかヒンドゥー教の僧とかも、完全に男女別で、あるいはヒマーラヤとかで修行する修行者とかも完全に女性を寄せ付けないと。男性の場合ね。当然その環境にいれば、邪淫っていうかな、他者への性的な行為っていうのはしないのは当たり前ですよね。その対象がいないから。対象がいないし、自分を刺激する相手もいないからね。じゃあその人がそのような、ね、魅力的な異性、しかも例えばそういう誘惑をしてくる人たちの中に放り込まれたらどうなのかと。ね。もしかすると破っちゃうかもしれないよね。でもそれではその人は邪淫の戒を完成したとは言えないわけですね。つまりどういう状況にあっても全く――まあ邪淫っていうのはもちろんいろんなレベルがあるわけだけど、一般的な在家の邪淫は、当然夫婦とかの場合はいいわけですけども、つまり不倫とか、あるいは、なんていうかな、快楽だけを求めた性行為はしないと。で、完全に世を捨てたっていうか修行一筋で行く場合は、一切の性的行為をしないと。
で、繰り返すけど、この性的行為をしないっていうのはもちろん形の部分から入らなきゃいけないわけですけども、実際にその完成っていう意味でいったら、心においても――まあ、いつも言うように例えばシヴァーナンダとかは厳しくて、町を歩いてて、例えば異性に対して、ちょっといやらしい、性的な思いが湧いてきたとしたら、それはもう心の邪淫なんだと。もちろんそこで飛びついたりはしないでしょう。なぜ飛びつかないかっていうと、それははっきり言うと、恥ずかしいからです。あるいは社会道徳が――社会道徳っていうか社会の常識があるからね。例えば皆さんが歩いてて、すごく好みの異性が前から歩いてきて、飛びつかないでしょ、絶対。それはなぜ飛びつかないかっていうと、例えばTさんが歩いててさ(笑)、なんかすごい魅力的な異性が来ても飛びつかないよね。飛びつかないのはTさんの心の理性がすごいんじゃなくて、日本社会がそうだからです。飛びついたらまずいですよね(笑)。もう捕まっちゃいますよね。で、もしそうじゃない社会があったらどうします? どうしますって変ですけども(笑)。例えば飛びついても別におかしくないような常識の社会があってね。そこだったら飛びついちゃうかもしれないよね。つまりもし心が調御されていなかったら。
だからそうじゃなくて、例えば邪淫にしても、心において、まあラーマクリシュナが言うように、例えば男性から見た場合ね、一切の女性を母なる神と見ると。あるいは、年上だったら母や姉のように思い、年下だったら妹や娘のように思うと。そして母なる神の現われとして見ると。一切の、例えば性的なイメージが湧かないと。ここまできたらもう完全な不邪淫の完成ですよね。で、もちろんそこまでいくのは大変かもしれないけども、さっきの不殺生、不偸盗と同じで、そこがポイントなんですよと。形はもちろん大事なんだけども、心において、今言った、例えば殺生、偸盗、邪淫でいったら、相手を害する気持ち、あるいは貪りの気持ち、あるいは性的な欲望、これらを全部調御できてるかどうか、これが大事なんだよと。ほかの戒律も全部そうですね。
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