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解説「菩薩の生き方」第二十一回(3)

三―三.心、感覚、エネルギー、肉体への正観

 これも四念処と関わってきますが、四念処の場合はある程度のアウトラインの教えがありますが、そうではなくて、たとえばどのように意志が生じ、そこからエネルギー(プラーナ)が動き、肉体が動かされているのかとか、外界の刺激と、感覚器官と、それをつないでいるプラーナと、それを認識し価値を与えている心との関係などを、つぶさに観察し続けるのです。
 つまり我々はこれらを「ほっといている」あるいは「レッテルを貼り」、日々を生きています。悪い意味で無作為に日々を生きているのですが、それは実際は無作為ではなく、心の習性として、誤ったレッテルをすべての現象に貼り、生きているのです。
 たとえば味覚などは、舌や歯の刺激にすぎません。「おいしい」というのはレッテルです。ではなぜ、その食べ物が噛まれ、舌に触れ、おいしいと感じるのでしょうか? そのプロセスにおける肉体、感覚、プラーナ、意識の働きはどのようなものでしょうか? それらを観察し続けることで、無明の生起を弱めていきます。なぜなら経験によるレッテルこそが、無明の正体だからです。

 はい。これはどちらかというと、ハタヨーガとかクンダリニーヨーガとかにも通じる、つまり肉体を含めた、あるいはこの感覚経験を含めたものの、これもまたシステムっていうかな――の観察だね。つまり、心というよりはこの肉体を含めた存在の、あるいはこの世における経験の観察。で、これもまあ、いつも言ってるけども、「歩いてる、歩いてる」とかね、「食べてる、食べてる」とか言いながら、つまりレッテル貼りをするだけでは駄目です。つまり、だってさ、「歩いてる、歩いてる」って言ったって、これ、あまりにも浅いですよね。浅いっていうのは、つまり狙いとしてはもちろん、ボーッとして自覚がない状態よりは、ちゃんと今自分がやってることを自覚しましょうと。その意味ではまあ、「歩いてる、歩いてる」でもいいのかもしれない。でもそれはほんとに浅い。もう一歩入らなきゃいけない。もう一歩入るっていうことは、「じゃあ歩いてるって何?」っていうことですね。「歩いてる」ってこれレッテルでしょ。何も表わしていない。「あ・る・い・て・る」ってね(笑)。「歩いてる」と。何それ? 歩いてるって。ね。歩いてないかもしれない、もしかすると(笑)。ね。歩いてるっていったいなんなんだと。で、それを観察する。
 だって、そもそも人体の仕組みって不思議ですよね。つまり言ってみれば、じゃあなんで歩いてるんですかと。歩いてるってなんですかと。それは筋肉の収縮と伸展によって、この足が前に出て、で、大地に触れ、で、大地を蹴って、次の足が出ると。こういうのを自然にやってるわけだけど。――ちょっとこの間わたし、体にちょっと疲れが来たのか、まあちょっと背中の方の筋肉が、炎症っていうかな、ちょっとこったみたいな感じになっちゃって。ちょっと固まってね。その時期っていうのはすごく歩きづらくなった。なんかもう固まっちゃって(笑)、なんていうかな、ちょっと歩き方忘れてるっていうか(笑)。背中の筋肉が柔軟じゃないから変なふうに歩いちゃって。「あれ? 歩き方がよくわからない」と。ちょっとおじいさんみたいな感じ(笑)。で、アーサナとか気功とかやって気を通して、だんだん治っていったわけだけど。普段はだから気にしてないわけだけど、実際には例えば歩くときの、この無意識の体のバランスの取り方っていうのはとてもまあすごいものがあって。
 で、それだけじゃなくて、今言った筋肉の収縮や伸展が起きてるわけだけど、じゃあそもそもそれ、なんで起きてるの?と。どこから来てるの?と。うん。それはもちろん医学的知識があればある程度は知識によって答えられるかもしれないね。うん。つまりまず肺による酸素の吸入と。で、それが心臓に供給され、で、動脈を通じて全身に酸素が送られてますよと。例えばね。でもそういうのを理解したとしても、大もとの大もとってよくわかりませんよね。なんで心臓動いてるのと。なんの力なの、これは、と。ね。あるいはそもそも生命とは何かとか、その最後の最後のところはよくわかっていない。で、そのようなことを、理論ではなくて感覚として、つまり観察としてやるんだね。
 どういうことかっていうと、明らかになんらかのエネルギーが当然あると。そのエネルギーによって、筋肉、心臓が動いていて、で、足を動かすときにも、プラーナの働きがまず生じて――当然これはヨーガとかやってる方が感じやすくなる。プラーナの働きによって筋肉の収縮とか伸展が生じ、「あ、それでこの歩くっていう作用が起きてるな」と。これは別にみんなやんなきゃいけないっていうわけじゃないけどね。そのような余裕っていうか、やりたくなったらやってもいいけども。これは一つの「歩く」っていう、もしくは「歩く」じゃなくてもいいけど、いろんな動作において――まあつまり、例えば腕を上げたり下げたりするでもいいけども。特に気功とかアーサナとか呼吸法とかやってると、気の流れに敏感になるので、例えば念正智しながら、集中しながら、例えばグーッと手を上げたりすると、明らかにある種の気の働きがこの腕に集中してるのがわかると。で、それによって、筋肉の動きがコントロールされることがわかると。あるいはそれが、まさにコンピューターのように、変な無差別な動きをしないようにかなり調御されてることがわかると。
 まあ、こういうのは別に必ずしもやらなくてもいいけど、でも一つのやり方ではあるね。

 はい。それから、そのような肉体の動きだけではなくて、まあこれはいつも言ってることだけど、例えば、感覚の代表的なものとして味覚と。これはいつも言ってる話ね。つまり、おいしいと。ね、この「おいしい、おいしい」――これ、駄目です。だって「おいしい」っていったいなんなんだと。それはレッテルにすぎない。つまりある種の味覚の神経的な疼きや、あるいは歯の感触、あるいは喉の、のど越し等の刺激を、おいしい、あるいはまずいと感じてるにすぎない。
 例えばわたし、いつも言ってるけど、まあ、やっぱり観察すると、それぞれいろいろあるだろうけどさ、わたしの場合、歯触りが小さいころから重要だったみたいで(笑)。例えばわたしが大好きだったのは海老があると。今日もちょうど海老が出てるけど(笑)。で、昔、若いときに、海老が好きだなって自分で思ってて。で、そのときに観察しながら食べたわけだね。で――これ、何度も同じような話してるけど(笑)――いったいわたしは海老の何が好きなんだろうかと。まず第一段階として、これも冗談みたいにいつも言ってるけど、だいたいこの段階、もう海老が――海老じゃなくてもいいんだけど、好きなものが舌に触れるか触れないかの、ここでもう「おいしい!」と思ってます。実際わたし言ったりしてます(笑)。例えば「うまい!」――カリッて食い始めてね(笑)。で、みんなから「え、今、食べる前に言ってましたよ」とか言われる(笑)。つまりまずイメージが先に来ると。イメージによって、うまいっていうのをまず頭で完全にレッテルを貼ってると。で、わたしの場合、海老の場合、「いったい何をうまいって感じてるんだろう?」と。それはまず一つはイメージです。つまり過去に食べた海老関係のいろんなイメージが、まずそれを、なんていうかな、盛り上げてるんだね。「うまいぞ、うまいぞ、うまいぞ」って感じ(笑)。
 で、次に、わたしがうまいって感じるポイントは、まさに歯でかむときね。「プリッ」であると。プリッ――あ、これかと。ここにうまさの中心があると。「プリッ」と。そこから出てくるアミノ酸とかの甘さとかではないんですよ。もちろん総合的に言えばそれもあるんだけど、一番感じてた「これだ!」っていうのは「プリッ」なんです。これ、味でもなんでもない(笑)。「プリッ」なんです。で、そこまで観察すると今度は、「『プリッ』て何?」と。ね(笑)。「『プリッ』がなぜおいしいの?」と。「『プリッ』がなんでそこまで価値があるの?」っていうところまでいくんだね。で、わたしの場合、小さいころから好き嫌いも多かったわけだけど。わたしが苦手なものっていうのはだいたい、例えば茄子とか、あとしいたけとか、つまり感触がぐにゃって(笑)、なんて言うの、はっきりしないやつ(笑)。

(一同笑)

 「なんだこれは?」って、ぐにゃって、はっきりしないあれね(笑)。うん。それがちょっといまいちなんだね、多分ね。だからわたしの場合かなり、まあ人によるだろうけど、歯触りっていうものが経験として、味覚の良し悪しを決める大きな要素になってるんだなと。例えばですけどね。そのように観察していくと、この海老なんていい例ですけども、そもそも味覚も幻影だなと。幻影というよりも、幻影とまでいかなくてもいいんですけども、その仕組みを知るだけでもいい。もうなんとなくあいまいな感じで「これうまいよな」って思ってたものが、歯触りかと。うん。最もその中心的なものはただの歯触りだったと。あと多くのイメージが、なんていうか、そこに組み込まれて、総合的にイメージとしておいしいと言っていただけであったと。われわれの感覚は、その味覚だけじゃなくて、そのような錯覚っていうかな。音にしろそうだし匂いにしろそうだし、触覚にしろそうだし、視覚にしろそうだし。ほんとにほんとにほんとに、なんていうかな、論理的に、あるいは正確にそこで起きてることを分析すると、あまり価値はない。
 もちろん、そういうこと言ってると当然この世はつまんないものになってくるわけだけど、それで正解なんです。つまんないんです、この世は。別に(笑)。すべて錯覚であって。われわれのほんとの喜びは、真我の本性、まあサチダーナンダといわれる本性的な喜びがあるわけだけど、それが本当の喜びであって、それ以外のものっていうのはまさにイミテーション、偽物ね。つまり本物に似せて作られた、そうだね、飾りのようなもんだね。なんとかその歓喜みたいなものを真似してるんですけども、でも実際のその正体は、今言ったように、ただの神経の刺激であり、あるいは、ね、例えば歯触りであり、あるいは観念から来る「これがいいんだ」っていう思いと、その経験とのただの一致であったりね。
 まあ、その一致っていうのが多いよね。味覚とかもそうだし、例えば視覚的な喜びとか、音の喜びもそうですよね。だいたい、なんていうの、「ああ、これこれこれ!」っていう感じがあるんだね。つまり自分の中にある「いいんだ」っていうデータと一致したときにただ喜ぶだけであって。その刺激そのものが実際にそれほどいいものかっていうと、繰り返すけどそれはただの刺激であると。
 まあヴィヴェーカーナンダはそれを「ただの神経の疼きだ」っていう言い方をしてるね。これはとてもいい言い方だね。つまり神経の疼きなんです。疼いてるだけなんだね(笑)。ウズウズ。ね。神経が刺激されてるだけだと。それに対してただ価値をいろいろ与えてると。
 いつも言うように、味覚なんて一番わかりやすいよね。つまり人によって全く違うと。さっき言ったように、わたしが嫌な「ふにゃ」っていうのが大好きっていう人、当然いるよね。いっぱいいますよね。例えば茄子とかしいたけ好きな人いっぱいいるだろうし(笑)。ね。人によって全く味覚の評価っていうのは全然違ってくると。あるいは、まあもちろん例えば絵とか風景とかも、何がきれいで何があまり良くないかっていうのは全然違ってくる。みんな言葉によって共通認識を持とうとしてるから、なんとなく似たような共通意識があるような感じはしてるけどね。でも実際それは合わせてるだけであって、実際には大もとのわれわれのカルマによって、この世の見え方とかが全然違ってきています。で、その見え方自体も、全く本質がない。で、繰り返すけど、その本質がないものをあいまいにとらえてるから、われわれはとらわれちゃって苦しんでるんだけど、正確に正確に見てみたら、全くとらわれる対象ではないと。うん。全くそのような価値のあるものではないっていうことがわかってくるんだね。
 はい、これが肉体、あるいは感覚といった――これはだから精神的な問題とかカルマの話とかそういう話じゃなくて、まさにもうちょっと物理的なエネルギー的な話、もしくは感覚の働き、あるいは肉体の神経的働きに対する正確な見方っていうことですね。はい、これもまあ、ありますよと。
 これもだから、さっきから言ってるように、まず一番大事なのは一番目の「わたしの心は真理から外れてないかな?」――この念正智が一番大事なんだけど、同時に、余裕があったらっていうか、日々の中でふっとそれがもしできるような場面とかね、出てきたら、それをやったらいいかもしれない。
 はい。これが三ー三ね。

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