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解説「菩薩の生き方」第二十回(4)

 そして「苦である」と。これは分かりやすいかもしれない。肉体は苦であると。肉体があるからこそ、われわれは苦しまなきゃいけない。それはそうですよね。さっき言った病気にしろ、ケガにしろ、あるいは老いていく苦しみにしろ、全部この肉体が基盤になってると。で、そこに目をつぶってはいけない。
 これはだから一つのセオリーだけどね。肉体は不浄であると。汚いと。そして無常であると。無常であるっていうのは二つ意味があります。一つは今言った、どんどん変わっていくっていう意味ね。つまり常ではない、無常と。で、もう一つの無常が、一番最初に言った意味です。つまり、常【つね】、つまり常【じょう】――ここでいう「常【じょう】」っていうのは、絶対なるものっていう意味ね。絶対なる変わらないものではない。
 つまり肉体ってまず、定義が非常に難しい。さっき言ったようにパーツの集まりだし、そして原子の集まりだから。肉体って、実際にはどこかにそれあるんですか?っていうのはなかなか難しいところがある。そういう意味でも無常であると。
 はい、そして「苦である」と。苦ね。肉体っていうのはほんとに苦しいと。だから皆さん、もし病気になったり、あるいは肉体的な苦痛が出たときは、それはもう喜ばなきゃいけない。それをもって考えるわけだね、深く、自分の心に言い聞かせると。肉体は苦だと。肉体は苦だと。だから決してわれわれはこの肉体にとらわれてはいけない。
 で、繰り返すけど、ただ解脱だけを考える場合は、「肉体は苦だ」と。「だから決してもうわたしはこの肉体には生まれ変わらない」と、これでいいわけだけどね。でも、菩薩とかバクタは生まれ変わらなきゃいけないから(笑)。肉体は苦であると。これはただの道具にすぎないと。これをひたすら修習するということですね。

 はい。そして最終的な帰結としては、無我とか非我とかいうわけだけど。無我、非我。つまり、これもまあ、とらえ方はいろいろあるけど、簡潔に、分かりやすくヨーガ的にいえば、つまり、「本当のわたしではない」っていうことです。言ってみればただの乗り物であると。まあ実際には乗り物ですらないんだけど。ただ錯覚してるだけなんだけど、まあ一応分かりやすく言うと、乗り物であると。ただの魂の乗り物にすぎないと。そこにとらわれてなんの意味があるんだと。
 まあ、いつも言うように、車みたいなもんだよね。皆さんは車に乗っていると。で、当然さ、車はメンテナンスは必要ですよね。だからメンテナンスはしなきゃいけない。ある程度はもちろん肉体のことも気を使ってあげなきゃいけないし、あるいは修行としてナーディーをしっかり浄化したりしなきゃいけない。しかし必要以上にとらわれる必要はないよね。
 わたし免許持ってないからあんまり分かんないけど、車好きの人ってもう徹底的に自分の車をチューンナップし、あるいは改造し、飾り立て――まあヤンキーの人とかね(笑)。で、すごく、中も絨毯とか敷いて、「ちょっと乗せてよ」って言うと「駄目だ!」と。「ちゃんと靴を脱げ!」(笑)。「おまえの体臭いから乗せない」とか言うかもしれない(笑)。で、ちょっとでもなんか傷がつくと、もうワーッとなっちゃう。
 もちろんさ、わたし車持ったことないから、車乗りの気持ちは分かんないけどね。わたしからすると、もちろん乗ったことないからさ、例えばバーンッて誰かがちょっとぶつかって車に傷がついたと。「いいじゃないか」と(笑)。

(一同笑)

 これ、普通はすごい問題になったりするよね。「ああ、これ、もうこんなに何センチも傷がついて。これ何十万かかるからな!」とかね。いいじゃないか(笑)。高々ね、金属でできた乗り物じゃないかと。
 でも肉体にもわれわれはそういう気持ちを持ってるわけだね。高々ほんとに――もちろん道具としては素晴らしいものなんだけど、でもそれはただの道具であってね。あまりにもとらわれ過ぎる必要はないと。だから今のカーマニアみたいな人の場合は、まさに苦しむよね。苦しむっていうのはさ、もう自分自身のようにね。例えばある日起きたら、大事な車に落書きされてたとしたら、もう怒りと失望と、今日一日もう何も手につかないような悲しみに襲われるかもしれない。でも全然興味ない人からしたらさ、あの人馬鹿じゃないかと。あの人本人にはなんの変化もないと。ただ彼が概念によって、この車を自分のことのように愛着し過ぎてるがために生じてる錯覚であってね。
 で、繰り返すけど、われわれはそれをこの肉体に持ってる。しかもそれは、もう、なんていうかな、なかなか引っぺがせないぐらいに強く愛着しちゃってるんだね。
 車の問題はさ、ちょっと考え方を変えれば、まあなんとかなるよね。例えばすごく車に愛着してたとしても、ちょっと心を切り替えれば、まあ修理すればいいかって気持ちになるかもしれないけど、肉体の場合はそうはならない。もうあまりにもガチガチに、「肉体はわたしだ」っていう思いがものすごく強過ぎるから。だからそれを一番最初に、徹底的に否定して、肉体はそんなにいいもんじゃないんだと。苦を生み出すものなんだと。無常なんだっていうことを徹底的に分析し、心に言い聞かせないと、われわれはなかなか解脱、つまりこの肉体という檻から解放されないと。だから最初にこの「肉体は不浄なり」、あるいは「無常なり」「苦なり」っていう教えを仏教では徹底的に説くわけだね。
 だからこれがまずないと、ほんとの意味での仏教的マインドフルネスにはならない。でもこういうのを例えば本とかで出すと、現代人はついてこないからね(笑)。スピリチュアルとかいってさ、開いたら「体の中には糞がいっぱいです」とかね(笑)。「マインドフルネスの第一 不浄」とかいってさ、売れそうもないですよね、それ。だからかっこいい、軽い、なんか気持ちいいことばっかり書いてるわけだけど。でも実際にはマインドフルネスの第一はここから始まります。

 はい、もちろんね、さっき、実際には四念処にもレベルがあるって言ったけど、高い段階になると、当然この肉体はもちろん駄目なんだけど、つまり密教的な世界においてはもう一つ、そうではない、つまり高位の精妙なる体を作るわけだね。つまり法身、変化身、あるいは報身、あるいはアストラル――まあアストラル体っていうか、高位のアストラル体ですね。高位の霊的ボディを作っていくと。この体は聖なる心から作られるものであって。これは、なんていうかな、素晴らしい菩薩の体であると。これはまあ肯定すると。
 あるいは、そうだな、肉体――肉体っていうか、この物理レベルの肉体はもちろん駄目なんだけど、この、生きながらもこの肉体と、なんて言ったらいいかね――肉体と重なるようにしてあるこのわれわれの霊的な存在を究極的に浄化していくと。これによって素晴らしい体をわれわれは得るんだと。で、その体は不死です。不死っていうのは、宇宙が終わるときには終わります。宇宙が終わるときは、もう粗雑なものも精妙なものも全部心の本性に返っていくから。ニルヴァーナに返っていくから、そのときは終わりですけども、宇宙がある間は――最長ね、宇宙がある間は続く霊的なボディをわれわれは得ることができると。これは不死であり、不浄ではない。それは精妙なるエネルギーでできてるから。
 実際には聖者の体っていうのは、そういう精妙なるボディと不浄なるボディが重ね合わされてると考えてください。重ね合わされてるっていうのは、なんていうかな、論理的には難しいんですけども、例えばそうだな、チベットとかでも聖者の生まれ変わりをトゥルクって言うわけだけど。このトゥルクっていう言葉はもともとニルマーナカーヤ、つまり変化身っていう意味なんですね、変化身。つまり聖者が――まあ聖者っていうかほんとに高い境地に達した存在ね――は、変化身を得ると。変化身っていうのはつまり、聖なるエネルギーでできた聖なるボディを得ると。で、それは、その変化身で生まれ変わってくる。これはほんとかどうかは別にして、ダライ・ラマもトゥルクといわれる。まあダライ・ラマがどうかは別にして、実際にチベットではほんとのトゥルクもたくさんいたと思います。もちろん偽物もいっぱいいたと思うけどね。
 チベットっていうのは実際には、もちろんチベット仏教は素晴らしいんだけど、実際にはすごく政治的な権力闘争であるとか、そういうちょっとドロドロとしたのも結構あって。つまり政治的な絡みで、ある人をトゥルクと認定するとかね、そういうのもよくある話だから、全員が本当にトゥルクかは分からない。でもほんとのトゥルクだった場合は、まさに精妙なる体で生まれています。精妙なる体で生まれてるんだけど、でも実際その人の、なんていうかな、肉体を検査したりしたらさ、それは普通の肉体ですよ。それは普通の粗雑なものと重なり合ってるっていうか。
 例えば仮にダライ・ラマがほんとのトゥルクだとしてね。「え? トゥルクなんですか?」っていって、で、分析したら、普通の人と同じたんぱく質とかいろんな粗雑物質でできてるのは間違いない。しかし同時に精妙なる体も持ってるんだね。それはおそらく、例えばラーマクリシュナにしろそうだし、偉大なる存在っていうのはだいたいそうです。
 はい。で、この精妙なるボディを作るんだと。で、このボディこそが、無常や不浄や苦を超えたボディなんだと。だからちょっと発展的な感じになるんだね。この肉体は確かに苦であると。不浄であると。無常である。しかしわれわれが修行によって作るボディは浄であり、そしてまあ宇宙がある間は永遠であり、そして清らかで至福に満ちたものであると。
 そうだな、「至福に満ちた」っていうのは一つの大いなる特徴になります。つまりそれは徳による、あるいは恩寵による至福のエネルギーがその気道をいつも流れてるので、そのボディそのものは苦のない至福のボディであると。はい、これはちょっと密教的な感じですけどね。
 でも――ちょっと話を戻すけど――ベーシックには肉体は不浄であり、そして無常であり、苦であり、そして大乗的、あるいはバクティ的にはそれを、その本来は不浄であり、そしてただの物理的存在にすぎない肉体をしっかりと道具としてうまく使い、今生の使命を果たすという考えになるわけだね。

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