yoga school kailas

解説「菩薩の生き方」第十九回(6)

 「私はそれにつかみかかろう!――たとえ私の腸はこぼれ、首が落ちても、煩悩という怨敵に、私はゆめゆめ身を屈しない!」
 ――こういった箇所は、私は好きですね。つかみかかってください。「まあ、煩悩もいいんじゃないですか?」とか、「まあ、そのうち何とかなるでしょう」とか、「まあ、自然に任せましょう」とかいう、間違った楽天主義、間違ったバクティ・ヨーガが、最近の宗教界や精神世界にははびこっているように思えます。しかしバクティ・ヨーガにしろ仏教にしろ、本来はこのような激しさを必要とするものだと私は思います。つかみかかり、殴りかかり、完膚なきまでに叩きのめすのです!――たとえその戦いにおいて自分の腹が裂かれ、腸がこぼれ、首が落ちても!――首がない胴体だけになっても、煩悩と戦い続けよう!――「シャーンティデーヴァ(平和・寂静の神)」という名前とはそぐわないような勇ましい表現が展開されていますね。しかし本来、シャーンティとは、動物的なぼーっとした平和のことではないのです。それは煩悩などの汚れが滅された、寂静の平和です。だからその境地を得るまでは、シャーンティデーヴァは煩悩と勇ましく戦い続けるのです。そしてもちろん我々もそうしなくてはなりません。
 そして煩悩というのは、私の心を住処としているので、もしここを追い出されたら、他に行くところがないのです。戦に負けた煩悩が再び力を盛り返す場所、それは「愚鈍に基づく私の無気力」だけだといいます。つまり我々が愚鈍になり、無気力に陥ってしまったなら、当然、また煩悩は力を盛り返してきてしまうでしょう。しかしこの章のテーマである「不放逸」に我々が励むならば、そして悟りの智慧という光によって照らすならば、直ちに消え去ってしまう――煩悩などは、高々その程度の敵なのです。

 よって我々は、愚鈍・無気力を捨て、悟りを得るためにただひたすら不放逸に励むべきなのです。

 そしてそのためには――病人が医師の忠告どおりに生活し、薬を飲んで初めて治療されるように――衆生の医師である仏陀の言葉を我々は忠実に聞き、守り、その教えどおりに生き、修行することが求められます。仏陀の命令を守らないで、どうやって悟りを得ることができるのか――こうしてシャーンティデーヴァは、この「不放逸」の章を締めくくっています。

 はい。「私はそれにつかみかかろう!――たとえ私の腸はこぼれ、首が落ちても、煩悩という怨敵に、私はゆめゆめ身を屈しない!」と。
 「『煩悩もいいんじゃないですか?』とか、『まあ、そのうち何とかなるでしょう』とか、『まあ、自然に任せましょう』とかいう、間違った楽天主義、間違ったバクティ・ヨーガ」――このイメージはまってはいけないと。
 つまりこのバクティヨーガとか、あるいは、そうだな、菩薩道もそうだけど、こういった精神世界の道っていうのは、そういう微妙な間違ったイメージと正しいイメージがすごく微妙なかたちで混在してるんですね。特にバクティヨーガとか菩薩道やってると、どちらかというとやはり修行者は楽天的な感じには確かになっていきます。切羽詰まった感じっていうよりは、どんどん精神的には楽天的な感じにはなっていく。しかし、だからといってそれは――ここに書かれてあるような、ダラダラと、甘い、自分の煩悩と戦わなかったりとか、そのうちなんとかなるとか――あのさ、「そのうちなんとかなる」っていうのも実は正しいんです。正しいけども、それを、その意味を(笑)、精微にとらえなきゃいけないんだけど。つまり、一切は主の御手の中にあるからなんとかなります。しかし原則としては、全力でぶち当たらなきゃいけない。全力でぶち当たりながら、さっき言ったように何度も何度も押し返されて、しかし「なんとかなるさ」っていう楽天的な発想で何度も戦わなきゃいけない。この辺は微妙なところなわけだけど。
 しかし、バクティヨーガもそうだけどね、これはいつも言うように、ヴィヴェーカーナンダも注意してるように、ただ「神よ、神よ」と言いながら全然自分のエゴと戦おうとしないと。つまりそれは、実際には「神よ」ってなってないわけですね。言葉だけで「神よ」「おまかせ」とか言って、全然おまかせしていないと。ただただその甘いムードに浸ってるだけであると。そういうのは駄目なんだと。徹底的に戦わなきゃいけないんだと。
 で、こういったイメージはとても大事だね。「わたしはそれにつかみかかろう」と。つまり完全にこれはイメージでしょ。つまり、実際には煩悩って実体がないんだけど、実体があるようなイメージをして。
 これはさ、それぞれの、例えば過去に見てきた漫画やテレビや、いろんなものと重ね合わせてもいいと思うんだけど、つまり「つかみかかる」と。この言葉どおり言うならば、煩悩――「ワッハッハ」っていう感じの煩悩っていう強靭な敵がいてね。その強靭な敵は普通はもう全く自分は相手にならないぐらいの強いやつです。全くもう、話にならんと。そういうやつなんだけど、決してひるまずに、どんなに力の差があると思えてもつかみかかると。「たとえ私の腸はこぼれ、首が落ちても、煩悩という怨敵に、私はゆめゆめ身を屈しない!」と。
 はい。つまりもう非常にリアルな話だね。全然実力者が違うから(笑)、完全に、例えば刀とかでもう胴体切られちゃって、もうドボドボドボッて腸が落ちるかもしれない。普通はそうなったらもう意気消沈(笑)。「もう駄目だ!」と(笑)。「腸まで落ちちゃった」(笑)。もう普通あり得ないですよね。例えば最近流行ってるような総合格闘技とかで、ガンガン闘って、バーッてやられてもしお腹が裂けて腸がドボドボッて落ちたら、もうギブアップですよね、普通は(笑)。しかし、全然関係がないと。首が落ちても、もうスパッて首を切られちゃってゴロンって首が落ちても、なんていうかギブアップ以前に(笑)、普通はもう当然「終わり」って考えるかもしれないけど、でも首が落ちても終わらないと。それでも負けはしないと。絶対にあきらめないと。腸がこぼれても、首が落ちても――まあそこで、首が落ちてもあきらめないんだから、当然、例えば目玉をくり抜かれようが、片手ぐらい切り落とされようが、どんな状況になろうが、あるいは例えば炎で体を焼かれようが、決してあきらめないと。もう徹底的につかみかかり、最後は絶対に勝利を得るんだっていう気持ちね。これ、イメージです。だからそれはもちろん別のイメージでもいいんですけども、皆さんが考えるところのあきらめない戦いのイメージね。
 さっきから言ってるように、普通はこういった戦いのイメージっていうのは駄目なわけだけど、煩悩との戦いにおいて、それは当然イメージしてかまわない。だからそれはもっと、例えば戦争みたいなイメージでもいいよ。つまりあっちはものすごい威力の大砲や、核兵器や、いろんな兵器を持ってると。で、それでもう何度も何度もこっちは打ち破られるかもしれない。しかし、それでも何度もあきらめずに――こっちはだから、まだまだゼロ戦みたいなのしかないかもしれないけども、何度撃ち落とされても立ち上がり、戦いを挑むんだと。そして最後は完全に勝つんだ、必ず勝つんだというイメージを持たなきゃいけない。
 そして最終的には、「つかみかかり、殴りかかり、完膚なきまでに叩きのめす」と。だから煩悩に対しては当然、情状酌量の余地はない。そこには甘い顔をしてはいけないと。
 繰り返すけど、他者に対しては当然完全に許しを持たなきゃいけないんだけど、煩悩は許しちゃいけない。そういう問題じゃないから(笑)。もう完全に――これもだからイメージでいいんですけども、もうグチャグチャに――もし勝てるならね、もうグチャグチャにする。ちょっとバーンって叩いてヒューンってなっても、そんなんじゃ駄目です(笑)。もう切り刻んで、燃やして、あるいは足蹴にして、もう完膚なきまでに、絶対にもう二度と立ち上がってこないぐらいまでグチャグチャにしなきゃいけない。それをするまで、この戦いをやめないと。そういうイメージを持たなきゃいけないっていうことですね。はい。

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする