解説「シクシャーサムッチャヤ」第一回(4)

「真理との出会いは稀有である。願わくばほんの少しの間、我が説くところを聞け。ただ三界の主なる人の言葉を聞くために、ここへ来たれ。神々もナーガも喜び、ガンダルヴァ、ヤークシャ、ガルダ、阿修羅、キンナラの主も、大聖仙も、真理を聞く渇望を生ぜしめて、ここへ来るべし。」
はい、ここに挙げられた、ガンダルヴァとかヤークシャとかガルダとか阿修羅、キンナラとかいうのは、まあいわゆるちょっと高い世界ね。われわれよりちょっと高い神の世界の、まあいろんなタイプの神だと考えてください。で、その神々に呼びかけてるわけですね。あるいはまあ人間であるわれわれに対して呼びかけてる。これは分かりますよね。「真理との出会いは稀有である」と。ね。まあつまりこれはイメージとしては、シャーンティデーヴァがこういらっしゃって、例えばシャーンティデーヴァが教えを説こうとしてる。はい、そしてそこに居合わせたと。あるいはそれを聞くカルマがあると。これはもう本当に、なんていうかな、千載一隅の稀有なチャンスなんですよと。
あのね、皆さんもそうですよ。例えば皆さん、この瞬間もそうです。この瞬間ね、皆さん今このシャーンティデーヴァの『シクシャー・サムッチャヤ』っていう教えを学ぶ機会にある。この機会っていうのは、本当に稀なものだって考えなきゃいけない。ね。そのようなカルマが発現し、今こうして学ぶことができることっていうのは、明日このカルマが持続するか分からない。あるいは過去においては全くなかったかもしれない。
もう一回言うけど、われわれは無智だから、過去世とか来世とか全く見えないから、全くそれは封印されて分かんないんだけど、もしかすると本当にもうわれわれは何億回も生まれ変わる中で、全くヨーガとか仏教とかに出合ってなかったかもしれない。で、これからも、カルマって分かんないからね、今日例えば教えをしっかり学んで心に植えつければ、またどんどん自分の中でそれは増大するかもしれないが、今日それをしなかったら、ちょっとカルマ切れっていうか徳切れになって――今日帰りぐらいに徳切れになって、「ああ、もうなんか修行したくなくなった」ってなって、修行できなくなるかもしれない。あるいはもうカルマが尽きて車にひかれて死んでね、また何億年も修行できない人生がくるかもしれない。だから本当に分かんないんですね。
まあただ、一つ言えるのはですよ、過去のことは見えない。未来も見えない。しかし今われわれが真理を学ぶチャンスにあることは事実なんです。よってこれを、本当にもうつかまなきゃいけないんですね。
はい。よって――「真理との出会いは稀有である。願わくばほんの少しの間、我が説くところを聞け」と。
「如来とダルマとブッダの御子(菩薩)とに、われは今、ブッダの言葉を集め理解せんがために、決意し、誠実に恭敬す。われは過去において少しの真理の理解もなく、教えもなく、教えの言葉も知らず、善の実践もせず、また幸福を得ず、ただ自我のみを友としてきた。」
これはね、もちろんシャーンティデーヴァの謙虚な言い方なわけですが、これはつまり我々が反省しなきゃいけないことですね。つまり、分かりますね? われわれは過去において――あのね、この中で、「いや、僕は昔から結構真理を追い求めてました」とか、「僕は結構正しい生き方してきた」とかいう人もいるかもしれないけど、まあそういう人であっても、反省してこういうふうに思ってください――「わたしはただ自我のみを友としてきた」と。つまり、わたしはエゴでいっぱいだったと。わたしにはエゴしかなかったと。教えを頼りにするとか正しく生きようとか、そういう表面的な思いはあったかもしれないけど、結局わたしにはエゴしかなかったと。ね。それゆえに、全く真理を理解することもできず、善の実践もせず、だから全然幸福ではなかったと。それを、そういうふうにね、ちゃんと、自分をごまかさずに懺悔しなきゃいけないんだね。「わたしは今まで本当にエゴだらけだった」と。それはね、小さいころからそうだったし、まあ最近までもそうだったかもしれない――っていう反省ですね。
「しかしわれは、もろもろの善根を成就せんがために、清浄なるダルマを得ることを決意した。そして今、かつてのわれらのごとき者たちのあり様を見て、教えをまだ学んでいない者たちのために、われはこの教えを説こう」と。
まあこれはシャーンティデーヴァの宣誓なわけですが。われわれもね、これに倣って――今言ったように、わたしには自我しかなかったと。エゴへのとらわれしかなかったということを反省して、清浄なるダルマをね、つまり真理の法というものを今からわたしは得るんだ、という決意をすべきだということですね。
-
前の記事
教えを修習する方法