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解説「菩薩の生き方」第十八回(8)

 はい、そして、ここに書かれているように、いつも言ってるように、チベット仏教でも、この「人に生まれ、ダルマに出合い、修行できることの稀有さ」ね、これを徹底的に考えさせられると。だから皆さんも、いつも言うように、いわゆる随喜ですね。この真理に巡り合ったことの喜び、そしてそれを、この稀有なチャンスをものにしなきゃいけないんだっていう真剣な覚悟ね、これを普段から徹底的に考えなきゃいけないと。だからこの部分も、ひたすら読むことによって、自分の心を教育するわけだね。
 だからこういう心の訓練の修行っていうのはまさに、いつも言うように、自分の心への教育です。自分の心は馬鹿であると。ただ一方では修行者の理性みたいなものがある。その修行者の理性によって自分の心を教育すると。こいつ馬鹿だから、おれの心は馬鹿過ぎるから、もう教え込まなきゃいけない。徹底的にいろんなイメージ、いろんな物語性のあるいろんな言葉を使って、ちゃんと教え込まなきゃいけないと。
 はい。もう一回、ここに書いてあることを繰り返すと、われわれが人間として生まれ、ダルマに出合うこと、これは大変な稀なチャンスであると。しかし、今までのわたしの生き方を見たら――例えば今死んだ場合ね、「今死んだ場合、来世、またチャンス来るかな?」――楽観的に考えたら来るかもしれない。「でも本当かな?」――ちょっと危ないかもしれないと。あるいはここに書いてあるように、いや、でもわたしは修行してから、もしくは修行する前もいろいろ苦しいこともあったし、過去世とか今生でやってきた悪業も結構落ちたと思うんですけどと。いやいや、そんな甘いもんじゃない。なぜかというと、そこで心動かしてるから。あるいはもっと悪い場合、心だけじゃなくていろいろアクションしてるから。苦しめばいいってものじゃない。苦しんで心を動かさなかったら終わりです。あるいは心動いたとしても、アクションを起こさなければ、何割かは落ちるかもしれない。でも心動かしてアクションもやって、「うわー!」って、「カルマ落ちた」とか、そんな、落ちるわけないよね。落ちるけども、また積んでると。この輪から逃れられないと。だからどこかで心を入れ替えてカルマを変えようとしなければ、悪業は消えないと。
 そしてそのような状況で、忍辱もせずに、カルマも落ちず、修行も全力でやらないからあんまり進んでいないと。で、もちろん、主の恩寵によって今生は修行の道に巡り合わせていただいたけども、今死んだらもうどうなるか分かったもんじゃないと。そういう焦りね。「わずか一瞬おかした罪悪からも、一カルパの間無間地獄に落ちる」と。これは、システムとしてそうだって言ってるっていうよりは、これもね、実際には仏典ではそういう話はたくさんある。
 それだけね、カルマは怖い。怖いっていうのは、もちろん仏陀はそのすべてを分かってるわけだけど、普通の人は分かりません。分からないっていうのは、原則は分かるよ。原則っていうのは、「やったことが返ってきますよ」――これは分かるよね。でも実際にはカルマの法っていうのはもっと微細なものであって。例えばさ、じゃあ、分かりやすく言うとね、よくいわれるように、仏陀とか、あるいは解脱者への悪業っていうのは大変な悪業になってしまうっていう話があるよね。でも、それさ、一般の人は分かってないよね。一般の人が例えば、ちょっとした出来心で誰かを殴ったと。それは暴力のカルマであると。でも、それですぐに地獄に堕ちるわけじゃない。殴ったら、まあ将来自分も殴られるとか、あるいは同程度のけがをするとか、そういうカルマですよね。でも仏陀を殴っちゃったら、もう大変ですよ。しかも仏陀の血を流しちゃったら、無間地獄です。でもこれさ、本人分からないですよね、その違いが。もしその人が無智だったら、この人が仏陀だっていうのは分からないし、普通の人を殴るのと仏陀を殴るのとどう違うんだってなってしまう。でもそこには法則性がある。でもこれは、この話は、教えを学んで智慧のあるみんなは分かる。でも実際はそのような、微妙なカルマが他にもいっぱいあるんです。だから気を抜いてると、そうでもないと思ってしまったカルマによって、地獄に堕ちることもある。非常に怖いんだね。

 そしてわたしは、無始、つまり計り知れないほどの過去世から、ものすごい悪業を犯してきたじゃないかと。で、今生も、懲りずに多くの悪業を犯してきたと。しかもさっき言ったように、あんまり忍辱してないから、そんなにカルマ落ちてないと。このわたしに何が善趣について説かれえようかと。「おれさ、今度天に行ったらどうしよう」とかね、そんな(笑)、そんな話全くありませんよと。「来世人間に生まれたら、こういう結婚をして」とか。いや、そもそも、あなたの悪業で、もう人間界とか天界とかいう言葉が出ることすら恥ずかしいと。それくらいの、まあしっかり懺悔をし、それくらいの反省をすると。
 もちろん、だからといってそこで落ち込む必要はないよ。なんていうかな、自分の悪業への認識を糧として修行をすると。だからおれは人一倍努力しなきゃいけないんだと。もちろんさっきから言ってる、みんなの救済が肩にかかってるっていうのもあるけども、それと同時にそもそもわたしのカルマは悪いんだと。なんとかして今生のうちに――だからこういう謙虚さから来る努力っていうのは素晴らしい。つまり、謙虚さによって、わたしはきっと人の百倍ぐらいカルマが悪いだろうと。だったら人の百倍ぐらい努力しなきゃいけない。こういう謙虚さや、あるいは反省の心から来る積極的な努力ね。これが必要だね。プライドの高さや卑屈さがあると、逆に「おれはどうせ駄目だ」と、なってしまう。これは駄目ですね。そうじゃなくて、自己の反省を前進の努力に結び付けると。ここはそのための一節ですね。

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