解説「菩薩の生き方」第十八回(1)

2016年11月23日
解説「菩薩の生き方」第十八回
【本文】
勝者の子(菩薩)は、かように菩提心を固く受持し、実践規律を犯さないように、常にたゆまず努力すべきである。
急卒に始められたこと、正しく熟考せられなかったことについては、それを「なそう」あるいは「なすまい」と誓言しても差支えがない。
しかし、仏陀および偉大な智慧ある菩薩ならびに私によって、力の及ぶ限り熟考せられたことについては、どうしてその実行を疑い迷ってためらうべきであるか。
また、もし「かくなそう」と誓言しながら、行為によって私がそれを成就しなかったならば、一切の者を欺くこととなり、その結果、私はどこへ向かわなくてはならなくなるだろうか(悪趣に向かう他はない)。
心で与えようと思いながら、与えない人は、たとえそれが些細な事物であっても、餓鬼となると説かれている。
ましてや、無上の安楽を(衆生に与えようと)真実高らかに叫びながら、一切の衆生を欺いたなら、私はどこへ向かわなくてはならなくなるだろうか。
【解説】
第四章は不放逸(ふほういつ)の章ですね。不放逸とは、怠けずに努力し、努め励むことです。
あまりよく考えずに決めたこととか、間違った考えにより決められたことに関しては、それをなそうがなすまいが、大きな問題にされることではありません。
しかし、菩薩の発願――すなわち、すべての衆生をこの輪廻の世界から救うために全力を尽くそう、そのために自分自身も完全な仏陀になろう!――というこの思いと実践の価値は、仏陀によって、菩薩によって、そして私自身によって、力の限りに熟考せられ、出た正しい結論なのです。ならばそれを実行するのをためらったり、疑ったり、迷ったり、遅らせたりするべきではないのです。
この辺はすごく現実的な発想だと思いますね。人生において、大事なのは選択であり、熟考して選択したことに関しては、全力を尽くすべきです。でないと人生が無駄になります。
私は、たとえば修行以外のことに関しても、そうだと思いますね。たとえばスポーツとか芸術とか、何かに人生をかける決意をしたとします。ならば全力で、ボロボロになっても最後までやりぬくべきです。その道を選ぶこと自体がその人の今生のカルマだとしたら、それに対してまず心を決め、決めたなら全力を尽くすべきです。
そして菩薩とは――それは今これを読んでいるあなたもその一人かもしれませんが――菩薩として衆生のために修行し、速やかに衆生をこの輪廻から救うために全力を尽くすことに価値を見出し、そのために生きることを誓った魂です。それは偉大なカルマの持ち主であるといえるでしょう。
しかしこの菩薩の中にも、悪いカルマや心の弱さなどによって、いったんは決めたこの道を全力で歩くことを躊躇したり、怖がったり、後退する場合があります。それを戒めているわけですね。
そして「すべての衆生を救おう」と一度決意した菩薩が、もしそれを途中でやめるなら、それは衆生への詐欺行為であるので、私は悪趣に落ちてしまうだろう、とシャーンティデーヴァは自分を戒めています。
はい。この『菩薩の生き方』は、ご存じのように『入菩提行論』の解説ですね。つまり、『入菩提行論』っていう一つの完成された聖典を、わたしが簡潔に解説したものなので、その勉強会なので、さらにその解説になるんでね、実際には要点はここでもう解説してしまっているので、そのさらに付け加え、もしくは全体を見直すような勉強会になると思いますが。
ちょっと今のところをもう一回見ていくと、まず、「あまりよく考えずに決めたことと、あるいは間違った考えで決められたこと」、それはまあ、途中でそれをやめたとしても、それはあんまり問題じゃないですよと。しかし、菩提心というもの、つまり「菩薩になろう」と、そして「みんなを救おう」と、「そのためにわたしは必ず偉大な覚醒を得るんだ」と、このような誓い、あるいはその価値、重要性――これは、「仏陀および偉大な智慧ある菩薩ならびに私によって、力の及ぶ限り熟考せられたこと」なんだと。
まず、まあ「私」は置いといて、「仏陀および偉大なる智慧ある菩薩」ね。つまり過去の仏陀、あるいは偉大な菩薩方が、大いなる智慧と慈悲の限りを尽くし、熟考し尽くして出た結論――菩提心だと。他のために生きるしかないと。あるいは他のために自分の修行を進めるしかないんだと。
で、みんなは――みんなはっていうか自分個人の問題としては当然いろんなパターンがあるかもしれない。そのように熟考したかもしれないし、あるいは軽く「そうだ、菩薩だ!」って思ってるかもしれない。あるいはそうじゃなくて、カイラスに来たらいつの間にか発願させられたっていう人もいるかもしれない(笑)。でもどちらにせよそれは素晴らしい縁であり、それは、言ってみれば、いつも言うように過去世からの皆さんの発願を表わしてる。つまりすべてはカルマ、因果なので、皆さんがここで、例えば少し考えて、菩薩に憧れを抱くと。あるいはもっと言えば、今言ったように、いつの間にか菩薩にさせられてると。いつの間にか菩薩の道を歩くようなことになっちゃってると。これは過去世からの発願の結果です。あるいは過去世から積み上げた修行の結果です。
ですからそこには、今言ったように、「いや、わたしは本当に熟考してこの道を歩くことに決めたんだ」っていう人もいるだろうし、あるいはそうじゃなくて、あんまり深く考えてはいない、という人もいるかもしれないけど、その後者、「あんまり深く考えていない」っていう人も実際は、過去世において、しっかりと熟考し、そして実践してきてるはずなんだね。それを考えなきゃいけない。
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