解説「菩薩の生き方」第十七回(7)

衆生を自己の生命のように愛し、さらに、自己よりも彼らをより以上に愛しますように。
自らに彼らが悪を結果づけても、自らの善は余すところなく、彼らに報われますように。
これも非常に『入菩提行論』的ですね。はい、まず、
「衆生を自己の生命のように愛し、さらに、自己よりも彼らをより以上に愛しますように。」
これはまず、『入菩提行論』に出てくる、衆生を自己の生命、命のように愛するイコール、いわゆる自他平等の教えですね。
普通は自分こそ愛すると。他者はどうでもいいと。で、これはまあ、お釈迦様の経典にあるわけですけどね。パセーナディ王っていう王様が、奥さんと一緒にお釈迦様の所にやってきたと。「いや、実はわれわれ夫婦は気付いてしまった」と。「わたしはわたしが一番かわいい」と。「愛する妻も娘も国民も二の次である」と。「わたしが一番かわいい」と。「それに気付いてしまった」と。で、王女も同じことに気付いたんだね。で、それをお釈迦様に言いに来たんですね。そしたらお釈迦様は、「それは正しい」と。「それがエゴであって、自我意識である」と。「それを超えなきゃいけない」と。
で、どんなきれいごとを言っても、われわれのこの自我意識っていうのは、自分だけがかわいいと。しかし当然、菩薩道っていうよりはこの覚醒の道を歩むには、まずそこを超えなきゃいけない。だからこれも願いであると同時に当然、発願ですよね。まずは衆生を自己のように愛したいと。自分が自分の命を守るようにみんなを守ると。自分の幸せをいつも気にかけてるように、みんなの幸せを気にかけると。自分が苦しみたくないっていつも思ってるように、できるだけみんな、一人も苦しめたくないと。このようにならなきゃいけない。
そしてさらには、「自己よりも彼らをより以上に愛しますように」と。これはまさに自他転換の教えです。つまり、普通は――もちろん家族のことも好きでしょう。恋人のことも好きでしょう。でも圧倒的に自分が好きです(笑)。みんなね。表面的には出ないだけであって、圧倒的に自分が好きです。それは窮地に立たせれば分かる。窮地。地獄に落ちれば分かるよ。地獄に落ちて責め苦にあってるときに、例えば家族が同じ責め苦に遭っててね。もうほんとに、なんていうかな、頭が狂いそうなぐらいの状態のときに、身代わりになるっていうのは、まずできないね。そのくらいの窮地に追い込まれたらね、普通はね。どんなに愛してるって言ってる人でもね。そのような状態をまず認め、しかし、それを努力によって、つまり菩薩としての修行によって逆転させたいと。平等どころか逆転させると。自分よりもみんなを愛するっていうふうにならなきゃいけないんだと。もちろんこれは、まずは理想でしかない。でもそれを決意し、絶対にそうなろうと。そうなりますようにと。その発願ですね。
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