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解説「菩薩の生き方」第十六回(1)

2016年9月14日

解説「菩薩の生き方」第十六回

菩薩の誓願 二十の詩

 仏法僧と菩薩とに恭敬をなし、帰依して、それら供養するにふさわしい人々に、わたしは礼拝(らいはい)を捧げます。
 悪から退き、すべての功徳(くどく)を良く守り、すべての人々の功徳をことごとく賛嘆します。
 私は頂礼合掌して、正覚者方に、法輪を転じて世界を安らかにしてくださるように、と請願します。
 このようになされた功徳や、自らがすでに行なった、また未だ行なっていない功徳によって、すべての衆生がことごとく無上の菩提心を起こしますように。
 すべての衆生がけがれのない感官を完全にそなえ、難を越えて、行いが自由自在となり、正しい生活を送る者となりますように。
 すべての衆生が、すべて手に宝を掌握(しょうあく)し、すべての資具は限りなく、輪廻にある限りつきることがありませんように。
 いつでもすべての女性が、優れた男子となりますように。またすべての衆生が、学と行を具(そな)える者となりますように。
 衆生が容色を持ち、姿が美しく、威光が優れ、見るに麗しく、病なく、力を具え、長寿でありますように。
 あらゆる方便に通じて、すべての苦しみから解放され、三宝に帰依し、覚者の法則の大宝を持つ者となりますように。
 慈愛・哀れみ・称賛およびとらわれのない心を持ち、布施・戒・忍辱(にんにく)・精進・禅定(ぜんじょう)・智慧によって飾られ、
 功徳と智慧の資糧をすべてまどかに具え、相好(そうこう)が明らかであり、不可思議の十地に間断なく進みゆく者となりますように。
 私もまた、それら及びその他すべての功徳によって飾られて、すべての罪悪から離れ、すべての衆生を慈しむ最勝の者となり、
 あらゆる衆生が願望するところの善をすべてまどかに具して、常にあらゆる衆生の苦しみを除く者となりますように。
 すべての世界において、いかなる人であっても恐怖を持つ人が、すべて私の名を聞くだけで、全くおそれることがなくなりますように。
 人々が、私を見、心に思い、またただ名のみを聞いて、浄信をおこし、乱れることなく、心安らかとなり、必ず完全無欠の覚醒に至る者となりますように。
 いかなる生にあっても、その生に随順する五神通が得られますように。あらゆる衆生に、すべてにおいて常に利益と安楽を与える者となりますように。
 すべての世界において、もしある人々が罪悪をなそうとするならば、彼らをすべて害することなく、常に速やかに罪悪への欲望から離れさせますように。
 地・水・火・風・薬草及び樹木を用いるように、常に衆生がすべて欲するままに妨げなく(我を)用いる者となりますように。
 衆生を自己の生命のように愛し、さらに、自己よりも彼らをより以上に愛しますように。自らに彼らが悪を結果づけても、自らの善は余すところなく、彼らに報われますように。
 衆生がたとえ僅(わず)かであっても未だ解脱していない限り、そのために、無上の覚醒を得ても、輪廻にとどまる者となりますように。

 これは、『入菩提行論』の解説の中で出てきましたが、この「菩薩の誓願 二十の詩」っていうのは、まあ、いわゆる大乗仏教の初期の中心的な聖者であるナーガールジュナの作品である『ラトナーヴァリー』――これはカイラスの本で『無明を超えて』に一部載ってるし、前に勉強会でもちょっとやったことがあると思いますけども、その中にこの「菩薩の誓願 二十の詩」っていう素晴らしい詩がありますと。で、シャーンティデーヴァの例えば『入菩提行論』を中心とした思想っていうのは、非常に、まあ仏教界の中でも特別な意味を持つ、あるいは特別なキーポイントとなった教えだと思います。いつも言ってるけど、例えばダライ・ラマ法王が亡命するときに、あんまり荷物持っていけないので、この『入菩提行論』だけを持って行ったっていう話もある。まあ日本ではまだあまり有名じゃないけども、チベットにおいてはまあ非常に重要な経典とされている。で、そこで説かれる教えも、非常に特殊な感じがするものが多いわけだけど。じゃあそのルーツはどこにあるのかっていった場合、それはこのナーガールジュナにも同じようなエッセンスが見てとれる。
 ナーガールジュナっていうのは、一般にはいわゆる中観派と呼ばれる人たちの、まあ大もとの人とで、だいたい普通に今仏教界でナーガールジュナっていうと、「ああ、中観派ですね」と。中観派っていうのは、空の教え、「一切は空ですよ」っていうのを一つの中観という理論によって説明していくと。だから非常に哲学的な仏教の教えのまあ代表者みたいなイメージがあるわけだけど。でも実際にはそれはナーガールジュナの一面であって、さきほど言った『ラトナーヴァリー』とか見ると分かるけども、そうじゃないもう一面としては、まさに菩薩道、つまり慈悲の教え、あるいは救済の教え、あるいは、のちのシャーンティデーヴァ等につながるような自分と他者を入れ換えるような教え、こういうのをたくさん説いてるんだね。
 だからほんとにみんな、ポイントを間違えてる。『入菩提行論』もそうだけどね。前にも言ったけど、『入菩提行論』も――昔カイラスで『入菩提行論』を勉強し始めたときは、ほとんど世の中であんまり知られてなくて。で、だんだんいろんな『入菩提行論』系の本が出るようになっていって、チベット仏教がね、広まるにつれて『入菩提行論』っていうのもクローズアップされてきたわけだけど、でもやっぱり多くの人たちは『入菩提行論』の、例えば第九章で説かれるような、つまり空の教えね、そこにばっかり焦点を当てるんだね。極論すれば、つまり多くの人が考えてるのは、空の教え、第九章こそが『入菩提行論』の真髄であって、ほかは付け足しだ、みたいな考えもあるわけだけど、逆です(笑)。
 ちょっとこれ、極論すると――あんまり言うと空の教えとか好きな人に怒られるかもしれないけど――空の教えこそが付け足しであると。その前の第一章から第八章、あるいは最後の回向にあるような菩薩道の教え、慈悲の教えね、それこそが真髄だと。なぜならば、それがあってはじめて空も悟れるんであって。「空だ、空だ」ってただ言ってたとしても、それはただの頭の邪魔な観念になるだけであって。そうじゃなくて菩薩道、しかも菩薩道っていうのはただありきたりな「慈悲だ!」とか「四無量心!」とかだけではなくて、あのように非常に実際的で、かつわれわれの心を揺さぶるようなかたちで菩提心の教えが説かれると。それが『入菩提行論』の素晴らしさなわけだけど。
 で、繰り返すけど、クローズアップはされてないけど、実はナーガールジュナもそういう面は多々あって、そののちにシャーンティデーヴァ等がより掘り下げて展開するような素晴らしい菩薩の教え、エッセンスみたいなものが、ナーガールジュナの教えにも見受けられるわけですね。その代表的なのがこの「菩薩の誓願 二十の詩」っていうやつね。

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