解説「人々のためのドーハー」第二回(4)
【本文】
彼らは、心の真の土台に気がつかない。
生来なるものの上に、彼らは、認識者・認識すること・認識の対象という、三つの偽りを押し付ける。
思考が生じ、そして消失していくところ、
お前はそこにとどまらねばならぬ。おお、わたしの息子たちよ。
はい。これも続きね。そのように、すべてを自分の心であると見ずに、他者のせいにする人々は、当然、その心の真の土台に気付かない。真の土台っていうのは、これは、ここでね、土台っていうのはあくまでも例えだって考えてください。でも例えだけども、なんていうか、そう言うしかないんだね。そう言うしかないっていうのは、言葉では限界があるわけだから、非常に近いことを言うしかないんだね。で、その観点で言うと、われわれの心には土台がある。つまり心っていうのは、すべての世界をあらわしてる、その大もとみたいなものなわけだけど、その心といわれるものが、そこから生じ、そして消えていくその土台みたいなものがあるわけですね。
はい、そして、
生来なるものの上に、彼らは、認識者・認識すること・認識の対象という、三つの偽りを押し付ける。
ここで「生来のもの」っていうのは、この心の土台です。心の土台である、真実の、まあ何かがあって、その上に「認識者・認識すること・認識の対象」――これをね、「三十七の菩薩の実践」とかでは三輪無分別智って言ってますけども――この三輪無分別智っていうのは、ここでいう「認識者・認識の対象・認識すること」、これを三輪と言います。で、この三輪を無分別に見る智、これが三輪無分別智っていうんだね。つまり逆に言うと、普通はですよ、ここにいる皆さん全員もちろんそうだけども、この「認識者・認識の対象・認識すること」っていうこの三輪の中に完全に取り込まれてるわけですね。それは当たり前でしょ。つまり、主体、「わたし」っていう主体があって、で、対象があって、で、わたしが対象に何かをしてるっていう感覚がある。この主体と対象と、そこで起きてるなんらかの出来事っていうかな、行為っていうか、この三つに、この三つのその偽りに、われわれは絡め取られてる。ちょっと難しいけどね、この辺はね。
はい、逆に言うと、その認識者・認識する対象・そして認識すること、これは、ないんだっていうことなんだね。すごく、「え?」って思うかもしれないけども、つまりそれが、実はこの世の真実なんですよと。ないんだっていうよりも、実はそのすべては一つなんだっていうことだね。
ちょっとこれも一つの例えにすぎないわけだけど、いつもよくわたしが挙げる例はね、夢の世界。夢の世界っていうのは、夢を鮮明に認識できる人はそれは感じるかもしれないけども、徐々にこの三つが現われます。徐々に三つが現われるってどういうことかっていうと、夢に入りましたと。で、夢の見ばなっていうか見始めっていうのは、なんていうかな、そんなに確固たる世界観があるわけじゃないんだね。つまりなーんとなくイメージがまず浮かんでくる。ぼわーんとイメージが浮かんできて、つまりその中で「わたしは」とかそういうのはあんまりなくて、ただデータだけがあるみたいな感じがある。情報だけがボワーッて浮かんでる感覚があって、で、その中で、その世界のある一部にグッと「わたし」っていう感覚を持つ。なぜかというとその「わたし」っていう主人公が登場しないと、その夢のデータみたいなものが表現されないから。例えば、そうだな、野球っていうデータがあるとしたら、自分が例えば野球が好きでね、いろんな野球のテレビを見たり、自分が野球を実際にやったりとか、いろんな経験があって、で、そのなんとなくすべてをひっくるめた全体的にあやふやな「野球」っていう情報があるんだね。この「野球」っていうなんとなくボワーッとした情報がバーッてまず浮かんできます。で、浮かんできて、自分の中で、野球がものすごく好きだった場合、今度は、なんとなくなあいまいなデータの中で、実際におれは野球をやりたいっていう感じがしてくる。そうなると、当然野球をやる自分っていうのをつくらなきゃいけないんだね。で、そこでグーッと、「野球をやる自分」っていうのがその全体のあいまいなデータの中から分離されます。つまり、「野球をやる自分」と「その他」に分離されます。これがだから主体と客体の分離だね。で、その中で自分は野球をやり始める。
ただ、夢っていうのは結構全体的にあいまいだから、その主人公がコロコロ変わったりするんだけどね。自分が投げてたと思ったらいつの間にかバッターになってたりするわけだけど(笑)。
夢っていうのはそういうあいまいなところがあるわけだけど、この現実世界もそれと非常に似てるんだね。ただまあ、ちょっと違いは、今言った話っていうのは、もともとあいまいなぼやーっとした全体的なデータから夢っていうのは現われるわけだけど、この宇宙の本性、心の本性っていうのは、それさえもないんだと。そんなもやもやした情報の集まりもない。そうじゃない、ほんとに心の本性とか土台といわれる、清らかな純粋な空【そら】のようなものしか、実はこの世にはないんだっていうことですね。はい、それがここに書かれてる、
思考が生じ、そして消失していくところ、
お前はそこにとどまらねばならぬ。おお、わたしの息子たちよ。
はい、つまりこれはまあ、瞑想のね、一つのテクニックとしてもよくこういうことをやるわけだけど、つまり、瞑想してるといろんな思考が浮かんでくる。浮かんできたと思ったら消えると。で、それをじっくりと観察するんだね。ここでいう観察っていうのは、「この思考はなんなんだろうか?」とかそういう観察ではない。つまりただひたすら見つめ続ける。見つめ続けることによって、その思考といわれる、つまりわれわれの心の働きといわれるものの正体を探ろうとしてるわけだね。で、それは、瞑想に熟達してくると、その心の働きとか思考とかいわれるものが、ずーっとなんか恒常的なものとしてあるわけではなくて、あるときパーッと浮かんで、で、あるときパーッと消えていくっていうことが分かる。で、それがどこから浮かんでくるのか、そしてどこに消えていくのか、その土台となってるところがあるわけだね。しかしわれわれはそうじゃなくてその浮かんできた思考にとらわれ、で、思考っていうのは浮かんでは消え、浮かんでは消えするわけだけども、浮かんでは消え、浮かんでは消えしてるその浮かんでる部分に常に集中し、なんていうかな、途切れなく思考があるような感覚になっている。そうじゃなくて、 思考が浮かぶ土台、そしてそれが消えていく土台があるんですよと。だからその動き回る思考にとらわれるのではなくて、それが発生しては消えていくその土台に心を集中し、そこに安住しなきゃいけないというところだね。
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