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解説「ミラレーパの十万歌」第三回(4)

◎死者への供養

 シンドルモが言いました。
「ジェツン、顔も体も輝いていて、昨年よりも健康そうに見えます。山の両側の道は雪で閉ざされ、誰も食物を持って来れないはずですが、神々に養われたのでしょうか、それとも野獣に殺された動物を見つけたのでしょうか? いったいどういうことなのでしょうか?」

 ミラレーパは答えました。
「多くの時間はサマーディの境地に入っていたので、食べる必要がありませんでした。しかし祭りの日には、ダーキニーたちがガナチャクラを行なって、食べ物を布施してくれました。時々は、昨日や数日前もそうでしたが、乾燥したわずかな小麦粉を食べました。
 馬の月の末日には、あなた方、弟子たちが皆、わたしを囲み、何日も空腹を感じずにすむほどの多くの飲食物を布施してくれるヴィジョンを見ました。ところでその日、あなた方は何をしていたのですか?」

 弟子たちが数えてみると、それはちょうど、ジェツンが亡くなったと思いこみ、葬儀を行なった日でした。

 ミラレーパは言いました。
「この世の人々が布施をなすことは、彼らのバルドにとっての助けになります。
 そして『今ここのバルド』を悟ることは、より利益になります。」

 はい。ちょっと話がずれるけど、これもね、何回か言ってるけど、ミラレーパはこのときいわゆるサマーディに入っていましたと。で、このサマーディの境地っていうのは、まあピンからキリまであるわけですが、中間の状態は、いわゆる霊的な世界、アストラルとか色界と言われる世界ですね。で、より深いサマーディになると、より心の本性の世界に突っ込むわけだけど。
 このミラレーパの場合はサマーディなんだけど、じゃなくてほんとに例えば死者、死んだ魂がいて、あるいは死者じゃなくても、もう例えば餓鬼の世界に生まれ変わった霊的な、幽霊みたいな存在がいるとして、で、彼らに対しての供養というのは何が有効なのかっていうと、それは二つあるんだね。二つっていうのは、一つは香りです。だからお香を焚くんだね。香りを食べるんですね、その霊的な存在、つまり死者っていうのはね。だからこれは皆さん、例えば身近な人たちが亡くなったら、まずお香をあげると。で、もう一つは、その死者に捧げられた食べ物、これは食べられるって言われています。つまり霊的な世界でね。
 だから最悪なのは、最近のお葬式とか、あと仏壇とかではイミテーションを置くっていうよね。そういうのもあるらしい。つまり食べ物の形をしたプラスチックのものとかを置くんだと。そうすると死者は食えません(笑)。「ああ、来た」と思って食べようとしたら、「あ、固い」と(笑)。

(一同笑)

 だから死者に何か捧げるんだったら、ほんとの食べ物、しかもちゃんと、その死者が好きだったものをね、ちゃんと置くといいね。もちろんそれは、いつも言うように――まあ、仏教的見解だと四十九日以内にその死んだ魂は生まれ変わってしまうので、四十九日間しか意味がないっていうけどね。要するに四十九日間の供養のときには毎日普通に生きてたときと同じようにね、食事時間にその好きだったものを捧げてあげるといいね。そうしないと食えないと言われています。逆に言うとそれのみが食べられる。あとは香りね。お香をしっかり焚いとけば、それを「ああ、おいしい、おいしい」って食うそうです。その死者の霊っていうのはね。
 話を戻すと、つまり弟子たちはほんとにミラレーパが死んだと思って葬儀を行なって多くの供物を捧げたわけだけど、ミラレーパは死んではいなかったんだけど、でもサマーディだからほとんどバルドみたいな、死んだ状態と同じような、深い霊的世界にいたわけだね。だから死者がそうであるのと同じように、自分に捧げられたさまざまなものがヴィジョンとして見えてきましたと、いうことですね。

◎今ここのバルド

 はい。そして次の言葉も大事なんですが、

 「この世の人々が布施をなすことは、彼らのバルドにとっての助けになります。そして『今ここのバルド』を悟ることは、より利益になります。」

 はい。これはまず、「この世の人々が布施を成すことは彼らのバルドにとって助けになります。」――これは分かるよね? つまり、われわれが布施をする。布施。例えば自分の師や聖者に対してお布施をする。まあ、あるいは別のパターンとしては法施ね、人々に教えを説くでもいいけども、つまり簡単に言うと、徳を積むっていうことです。そのようなお布施をしたり徳を積んだりすることは当然、バルド、つまりその人が死んだとき、死後の世界において、まあ、徳のエネルギーであるとか、あるいはそのお布施をした聖者とか師匠との縁とかがその人をバルドで導いてくれるわけだから、だから生きてる間にしっかり布施やいろんな徳を積んでおきなさいと。これは分かりやすいね。
 で、二行目が、「『今ここのバルド』を悟ることは、より利益になります。」――はい、『今ここのバルド』――これは、そうですね、二つ意味があると思います。一つは、あのこれはこの間の六ヨーガの「バルドのヨーガ」の話のときにも言ったけども――もう一回言うけどね、バルドって何かって言うと、バルドってもともとは、まあ、サンスクリット語ではアンタラーバヴァっていうんですが、「中間」っていう意味なんです。普通はこれは、死んで次に生まれ変わるまでの中間、これをバルドっていうんですね。で、バルドってどういう世界ですか? それはその人のカルマに応じて――例えばその人が憎しみに満ちてたら、死んでそのバルドの世界に入ったときにさまざまな怖いものとか、気持ち悪いものがグワーッて出てきて、うわーって感じで苦しみます。あるいはその人が貪り、つまり食べ物とかあるいはお金とかの貪りに満ちてたら、その自分が執着してたものがいっぱい出てきます、バルドに。あるいはその人が――そうですね、ある程度修行し、そしてまあ、例えばいろんな教えとか聖者とか聖なるものをいっぱいイメージしてたら、そういったものがいっぱい出てきます。だから夢とすごく似てるんだけどね、バルドってね。でも夢よりも深いです。深いけども、システムとしては夢と似ています。つまり生きてる間にわれわれが馴染んできたいろんなイメージや、心の持ち方とか、あるいは普段考えてることとか、あるいは実際に行なったカルマとかが集約されて、バーッてこうイメージとして吹き出てる世界がバルドと言ってもいい。
 だからバルドって別に特別なもんじゃないんです。もともと今も心の中にあるものが、死とともにバーッて出てきてますよと。生きてきた、例えば七十年だったら七十年かけてつくった自分の心の奥にあったものをすべて経験するのがバルドだね。
 で、これが「死のバルド」っていうわけですが、つまり死んで生まれ変わるまでのバルド。で、バルドっていうのはこれだけではなくて、次に「夢のバルド」ってあるんだね。で、夢のバルドも今の話とシステム的には同じ。つまり死のバルドっていうのは、生きてきたときの心の状態がすべてイメージとして経験されるわけだけど、同様に夢っていうのは、起きてるときの生き方とか考えてたことがすべて夢として経験されるわけでしょ? だからこれは夢のバルドっていうんだね。つまりシステムとしては全く同じなんです。
 で、これと全く同じで、実はわれわれが今、「生」と呼んでる、つまり人生と呼んでる、この今の人生もバルドなんだっていう考えなんだね。つまりそれは前生までの人生からつくられたただのイメージなんです。分かりますか? つまりわれわれが今、現実だと思ってるこの世界も実はバルドなんです。ね。
 つまり、最初にまずバルドの概念を理解しましょうと。バルドってどういうことですか? それは現実世界で経験したものが幻影として、イメージとしてバーッて死後現われてきますよと。「あ、なるほどそういうことですか」と。「分かりました」と。で、それと似た夢のバルドがありますよと。それは起きてるときに経験してきたものが幻として夢として現われますよと。「あ、それもよく分かりました」と。これがよく分かったら、次に三つ目も理解しなきゃいけない。「ところで、今生きてるこの人生も実は幻ですよ」と。ね(笑)。それは前生までの経験から生じてる幻なんです。
 でもよく考えたら、じゃあ前生は現実だったんですか? いや、前生も前々生までの経験の幻だね(笑)。つまり幻が幻を生んでるだけなんだね。だからすべてはバルドなんです、そういう意味ではね。
 われわれはバルドの中で、実体のない世界の中で――まあ、生きてるときはこれを実体だと思い、夢の中では夢を実体だと思い、死んだときには死後の世界を実体だと思い、苦しんでるんだね。でも実は全部バルドなんですよと。これが一つの『今ここのバルド』っていう意味ですね。
 つまり段階的にまず最初に、もちろん死後のバルドでちゃんと苦しまないように、生きてる間に布施をしときましょうと。徳を積んでおきましょうと。これはもちろん正しい。これはやっておかなきゃいけない。しかしより高度な見解としては、死後だけではなく、今われわれが生きてるこの現実と錯覚してる世界も幻影なんですよ、バルドなんですよ、これを理解しなきゃいけませんよっていうことですね。はい。それがまあ、『今ここのバルド』。
 で、さらに深い意味でいうと、この「今ここ」っていう言葉ってよく仏教で使われて、最近精神世界でも、よく好まれて使われるよね。「ナウヒア」っていうやつですね(笑)。今ここ、ナウヒアね。つまり今ここしかないんだと。つまり時というのはほんとは存在しない。過去もなければ未来もない。今ここしかない。で、今ここに集中しなきゃいけない。これがまあ、より深い意味での今ここのバルドですね。
 で、この「今ここ」っていうのは、これも一つのサイン的な言葉だね。だからわれわれがほんとに瞑想において、あるいは現実生活において、一切過去にとらわれず、一切未来にもとらわれず――ここで言う過去とか未来っていうのは、もちろん一秒も駄目なわけですよ。一秒前にもとらわれても駄目なんだよ。一秒後にもとらわれても駄目なんだよ(笑)。だから例えば瞑想してね、「今ここ、今ここだ」と思って、グッと集中して、ピカーッといい状態になったとするよ。「ハッ」と。「お! 今、すげえ良かった」――もうこの段階で過去に引きずられてます(笑)。「今の瞑想すごくね?」って(笑)、この段階でちょっと過去に引きずられてる。で、次に、「あ、もう一回今のような状態こないかな」――これはもう未来を見ています。もうこれじゃ駄目なんだね(笑)。だから非常に難しい。しかしこの「今ここ」っていうそのポイントに集中できれば、その人はある意味――その瞑想の間だけでも、この幻影からちょっと解放されます。やっとちょっと目が開けてくるっていうかな。これは深い意味での「今ここのバルド」ですね。だからその二つの意味がここは考えられますね。

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