解説「菩薩の生き方」第十一回(4)
【本文】
一切の方位に住する正覚者と、大慈悲心ある菩薩に、合掌をささげて私は次のごとく告げざるを得ない。
無始の輪廻において、あるいはまた今生において、獣のごとき私が、いかなる悪をなし、あるいは他をしてなさしめたとしても、あるいは無智のゆえに、身を滅ぼすための罪過を是認したとしても――かかる罪過を、私は後に受けるべき苦痛に悩まされて、告白する。
三宝に対し、父母に対し、師に対し、あるいは他人に対し、身と言葉と心をもって、私は怠慢のゆえに罪過を犯した。
導師よ。多くの過ちによって堕落した罪深き私が、いかに恐るべき罪悪を犯したにしても、そのすべてを私は告白する。
どうして私はこの罪悪を逃れえようか。速やかに守りたまえ。私の罪が滅びない間に、にわかに死が私に到来しないように願う。
この死は、我々がことをなし終わったか否かをかえりみない。確信をもってわれらを滅ぼす。それは、健康なると否とによって当てにしがたい。大電撃のように突然に我々を襲う。
【解説】
仏教やヨーガで説くカルマの法則をリアルに分析するならば、私たちが今生において、あるいは過去世も含めて、今まで犯してきた罪というのは膨大にあります。それはごまかしていればわかりませんが、リアルに考えれば考えるほど、その果報が恐ろしく感じられます。
だから懺悔の修行が必要なのです。懺悔において、自分の心に封印してきた一切の罪を、ごまかさずに告白します。そうすると、そのカルマによって形成される自分の未来や来世というものがいかに危ういかということが理解でき、修行してその罪を浄化せずにはおれなくなるでしょう。
だから、懺悔とは、卑屈になるためにするのではありません。卑屈になるのは、まだ懺悔ができていない証拠です。本当にリアルに自己のカルマを分析したら、卑屈になんてなれません。
たとえば、「あと一週間で死ぬ。それまでにカルマを浄化できなければ、地獄に落ちる」ということが、もし明確に提示されていたとしたら、どうしますか? もしここで「ああ、どうせ俺はいいんだよ」と言って卑屈になれる人がいたとしたら、逆にその人は大変な勇気の持ち主だと思いますね(笑)。普通、この状態に陥ったら、死に物狂いで、カルマを浄化しようと励むでしょう。
もっと面白いたとえも、お釈迦様はよく使っています。たとえばあなたの髪の毛に炎が引火し、燃え上がったらどうしますか?――「どうせ俺は、燃えるんだよ」なんて、卑屈になっている暇がありますか(笑)? 何をおいても、全力で消火に努めるでしょう。
同様に、過去の自分のカルマが自分の魂に悪業の火をつけ、地獄に落ちることが、あるいは苦悩の未来がもう避けられない切羽詰った事実としてあることが、懺悔の修行によって理解できるようになってくるのです。
しかも、人はいつ死ぬかわかりません。カルマを浄化するのを、死は待ってくれないのです。様々な理由で、死は突然やってきます。それは私たちの周り、あるいはニュースなどで、よく理解できるでしょう。
今のままだったら、どんな苦しみが未来にやってくるかわからない。地獄に落ちる危険性さえある。しかも、それを浄化できるタイムリミットは、いつまでなのか、全くわからない。明日死ぬかもしれない。いや、一分後に死ぬかもしれない。――こういうことは、脅しではなく、現実なのです。だからその現実をごまかさずに、しっかりと見つめ、一分一秒を惜しんで、カルマと心の浄化に励まなければならないのです。
「虹の階梯」の中に、次のような印象深い良い言葉がありますね。
「今すぐに、ここから発って修行に出かけなさい。あなたに死が訪れるのが早いか、その前に死を乗り越えるゾクチェンの境地にたどり着くことができるか、今その熾烈な競争が始まったのだから。」
はい。この辺はね、もう皆さんにとっては非常に基本的な、いつも学んでることではあると思うけども、ただ実際にはこれは、大変リアルな真実なわけだけど、一般的に仏教においても、もちろんヨーガにおいても、あまりこういうことは説かれない。いろんな本とか見ても、だいたいみんな楽天的ですね。非常に楽天的過ぎる。しかし本当にリアルにこのダルマを分析し、それをお釈迦様や聖者方が言ってるとおりにとらえたならば、まさにここに書いてあるとおりになります。つまり、そんなに甘くはない。うん。みんな見て見ないふりしてるけど、みんなが積んできたカルマっていうのは悲惨であると。ね。あるいはもし過去世がわかったとしたら、過去世で積んだカルマも加算したらもう悲惨であると。それを見て見ぬふりをしてはいけない。
皆さんが、そうだな、ダルマに出合ってないとしたら、これはもう、変な話、現実逃避するしかないのかもしれない。でも皆さん、ダルマに出合ってますからね。出合ってるっていうことは、もうこれは、過去に積んだ、あるいは過去世に積んだ、とんでもない悪業を浄化できるチャンスというかな、浄化できる権利を得たというわけだから、これはもう、そこで、なんていうか、見て見ぬふりする、現実逃避するのは、ただのアホです(笑)。だって、こんなチャンスないわけだから。ここで頑張りさえすれば、なんとかチャラにできる。なんとか自分の悪業を浄化し、この苦悩の、あるいは闇の世界からジャンプアップできるそのチャンスが今、目の前にやって来たんだと。
はい。ただ、一般的にはみんな無智だから、つまり完全にもう魔によって覆いをかけられてるんだね。もう、よーく考えたら、自分の悪業がいかにひどいか、あるいは自分の心がいかにけがれてるかってわかるはずなのに、なーんとなく覆いを掛けられていて、ちょっと楽天的になっちゃってる。そうじゃないんだと。で、それを呼び覚ますために懺悔が必要なんだね。
懺悔っていうのは、繰り返すけど、ちょっと懺悔がしにくいっていうか苦手な人は、もう言葉でもかまわない。懺悔系の詞章とか習ってる人はその詞章でもいいし、あるいはもっと単純に「懺悔します、懺悔します」でもいい。あるいは自分のウィークポイントがわかってる人は、例えば単純な言葉としてね、まあ例えばだけど「わたしの嫌悪の心を懺悔します」とか、あるいは「わたしの執着を懺悔します」とか、そういうのでもかまわない。もちろんリアルに具体的にいろいろ思い起こせる人は、あるいは自分の心を分析できる人は、それをひたすら心の中で言葉にして懺悔を繰り返すと。あるいはリアルに思索をする。思索っていうか、「わたしはほんとにこんな悲惨な悪業をしてしまいました」と。「どうかお許しください」と。「浄化してください」と。「必ずわたしはこれを乗り越えます」と。これを繰り返すと。
で、これを繰り返してると本当に、まさにリアルな問題として――リアルっていうのはさ、つまり皆さんは目の前の、なんていうか、この社会における、例えば仕事の問題とかだったらリアルに考えるでしょ? 例えば発注を間違えちゃって三倍くらいの商品が来たと。現実逃避しないよね(笑)。目の前に三倍の商品が置かれてて、「さて、ゲームでもやろうか」とかやってたら(笑)、もう上司に怒られちゃうよね。「絶対にその時間内にこれをなんとかしなければいけない」ってなりますよね。でも皆さん、社会的なものに対してはそういうふうに考えられるのに、ダルマに関しては、途中まではあいまいな感じで「ああ、真理素晴らしい。真理素晴らしい」ってなるんだけど、そういうふうに現実的に考える頭がまだちょっと欠けてるんですね。だから現実的に考えなきゃいけない。本当に物理的にカルマはあるんだと。で、わたしはひどいことをやってきたんだと。あるいは自分の心を見ても、かなりひどいけがれがもう蓄積してるんだと。これをなんとかしなきゃいけないんだと。この切羽詰まった気持ちね。
はい。で、ここにも書いてあるのはまず、懺悔っていうのは卑屈になるためにするのではないと。これはラーマクリシュナとかも言ってるけども、卑屈になるような懺悔はもちろん駄目です。そうじゃなくて、いつも皆さんに言ってるようにね、菩薩の誇り、修行者の誇りはもちろん持ってかまわない。っていうか持たなきゃいけない。つまり、繰り返すけども、わたしが今こうして修行してるっていうことは、特に菩薩道、バクティヨーガあるいは密教といった素晴らしい道に出合ってるってことは、もう絶対わたしは菩薩であり修行者であるのは間違いないと。これはもう、カルマの法則からいっても間違いありません。そうじゃない人がこうなりません。そうじゃない人はこんな勉強会について来れません(笑)。あるいはそのような教えに巡り合えない。巡り合えること自体がその因があるんだね。だからわたしは間違いなく、この聖者社会の一員として何度も転生してきたはずであると。で、ここからなんです。それなのに――つまり武士が自分を、己を恥じるみたいな感じで、それなのにおれは、この聖者社会の一員として、あるいはバクタ、菩薩として、恥ずべきことをいっぱいやってきたと。この気持ちね。この慚愧の気持ち。だからこれは、繰り返すけど、誇りと懺悔が同一してるわけですね。「もともとおれは駄目なんだ。存在からして駄目なんだ」ってなっちゃうと、これがラーマクリシュナが否定する、ちょっと間違った、キリスト教の人たちがよく陥る、「罪だ。わたしは罪人です、罪人です」っていうパターンね。これは駄目だと。じゃなくて、誇りと同時に、「それなのにわたしはこんな悲惨なことをやってきてしまった。これは大変なデメリットであって、本当に申し訳ないことだ」と。
そして実際に、ね、この先には悪趣、地獄や――つまり、これも理想論じゃ駄目なわけです。つまり理想的には、口では「みんなを救うぞ」とかね、あるいは「バクタとして!」「神の道具!」とか言ってるけども、いや、ちょっとあなた、待ってくださいと(笑)。そんなこと言ってるけど、あなた今のままだったら地獄行きですよと。神の道具になんかなれませんよと。みんなを救うどころか、自分さえも救えませんよと。そんな理想ばっかり言ってないで――もちろん理想は決して外しちゃいけないんだけど、理想に伴う努力をしてくださいと。で、その努力っていうのは、積み上げる努力ももちろんしなきゃいけないんだけど、同時に、過去に積んでしまった、あなたのデメリット、悪を、もうできるだけ早く滅する努力をしましょうと。で、これがリアルにリアルに本当に感じられてくると、繰り返すけど、ここに書いてあるように、卑屈になれません。
で、ここで面白い例えが書いてあるけどね。「一週間」――これも何度も言ってるけども、わたしよく出す例えとしては――これはリアルに考えてね。ベルトコンベアーに皆さんが乗っていて、グーッと――もう目の前に地獄が見えると考えてください。地獄ね。あと三十分もすればこのまま地獄行きであると。これは本当にわかってる。で、ここから脱出するにはカルマを浄化するしかない――と思ったら、もう、あらゆることをやるでしょ。もし三十分与えられてるとしたら、ムドラーやったらいいのか、礼拝がいいのかわかんないけど、まあとにかく全力であらゆることを総動員して、なんとかカルマを浄化しようとするよね。で、今のもちょっとイメージにすぎないんだけど、われわれはなんか、そういう現実っていうかな、われわれが現実と信じてる社会的なことに関してはそういった努力をするわけだよね。――例えば皆さんが、まあ、なんでもいいけどさ、例えばあと三十分で何かをしなかったら――じゃあ、あと三十分でこの問題を解かなかったら、どっかに連れていかれて(笑)、地下で強制労働させられるとかね。まあ、これもなんかちょっとファンタジーだけど(笑)。
(一同笑)
現実になんかそういうのがあったとしたらね。あるいはまあ、そういうヤクザとか北朝鮮の人とかにつかまって――わたし、何かで読んだことあるけど、ある人が、まあ、ほんとかどうか知らないけどさ、昔、北朝鮮の工作員が、よく日本人を拉致してたときにね、ある人が拉致されそうになったと。でもその人が機転を利かせて、その何十分かの間に、「いや、おれを拉致するとまずいぞ」みたいな話をしてね、で、相手もちょっと、まずいかな、みたいな感じになって、「このことは誰にも言うな」って言って去って行ったっていうのを何かで読んだことがあるけども、これはもう現実的にあった話。つまり、「やべえ、拉致される」と。少なくとも十分、二十分の間に、もう知識を総動員して、ここから逃れるすべを考えないと、もう本当に拉致されちゃう。拉致されてしまったら、ちょっともう人生が終わってしまうと。うん。これはまあ現実的にある話かもしれない。
で、こんなことよりもさらに悲惨な、そしてもっとリアルなことが、皆さん見えないだけで、もう身に迫っています。魔の工作員っていうか、魔の拉致の手がもう身に迫ってる。しかし、それから逃れられるすべも与えられてる。つまり、皆さんが死ぬまでの間に、いかに浄化するか、その浄化の方法、つまりダルマ、修行っていうものは教えられてると。あるいは正しい生き方っていうのも教えられてると。あるいは、より積極的に、苦しみに耐えることによって、その苦しみに相応する皆さんのカルマが浄化されるってことも教えられてると。だったら、これは完全に、天秤にかけるならば、その目の前のさ、例えば修行の苦しみとか、あるいは誰かになんかひどいことされて苦痛だとかね、そんなのはもうほんとに比べられない話であってね。自分の過去になした悪業の結果としての来世の地獄であるとか、悲惨な転生であるとか、あるいは悲惨な未来とかを考えたらね。はい、それを徹底的に日々の懺悔――教学をもとにした懺悔の繰り返しによって、その気持ちを確立しなきゃいけない。