解説「菩薩の生き方」第十一回(2)
はい、そしてわれわれがこれを、この部分の記述を日常生活に現実的に取り入れるとしたら、まあ皆さん多くの人は家に祭壇があるでしょうけども、祭壇を作って、日々、まあ皆さんやってるかもしれないけどね――そうだな、ちょっと現実的に言うと、まあ、これはできる人とできない人がいるだろうけどね、家のいろんな事情があってね。で、できる人は、ちゃんと祭壇を作ってね。まあ、もちろんさ、究極的には、当然ね、神っていうのは遍在している。神や仏陀は遍在してるから、当然場所とか関係ないんだけど、でも一応供養の儀式の場としてね、一応祭壇を作って、で、自分の好きな神や仏陀の絵とか像を置いて、で、毎日しっかりと――一応の伝統としては、食べ物、それからお花、そして水、それからお香ね。あと灯明もね。食べ物、花、水、お香、灯明。でもこれは伝統なので、別にすべてをやる必要はないんだけど、こういったものを捧げると。あるいは、家でもし自炊する場合は、当然その自分で作った食事、あるいはまあ、そうだな、買ってきた食事等を、必ず自分が食べる前に祭壇に捧げる。だから自分は必ず、そのプラサード、お下がりをいただくんだっていう気持ちでね、必ず買ってきたものや作ったものは捧げると。
で、当然、理想的には、なんていうかな、さっきのラーマクリシュナーナンダみたいな気持ちでなきゃいけないんで、ちょっとこれは現実的にどこまでやるかは皆さんに任せるけども、例えばちゃんと――例えばだけどね、お惣菜買ってきたとしたら、ちゃんと祭壇にあげるときは、蓋取らないと駄目ですよ(笑)。蓋取らなきゃ食べられないからね。あるいは例えばご飯を炊いたとしたら、その炊けたものを、自分が手をつける前に、もちろん一部でもいいからね、ちゃんと祭壇にあげると。だからまさに本当にそこにいらっしゃって、供養させていただいてるんだっていう気持ちね――で捧げるっていうことだね。
で、それプラスもちろん、やりたい人はっていうかな、あるいは余裕がある人は、さっき言った、まあ、毎朝水を捧げる、あるいはお花を捧げる、あるいは灯明、お香を捧げると。これも、それぞれの気持ちでね、やったらいいと思います。
はい。で、もう一つのやり方として、「日常生活において、五感で感じるすばらしいものをすべて心の中でブッダや菩薩に供養するというやり方です」と。まあ、これもいつも言ってることだね。食事をするときも服を着るときもきれいな景色を見たときも、つまりこの世界のものすべてっていうのは、ただただ、聖なるお方、至高者、神や仏陀に捧げるために存在してるんだと、そういう気持ちね。
で、わたしの五感。われわれは五感というものをいただいてるわけだけど、この五感は、わたしの心を喜ばせるためのものじゃなくて、わたしがこの五感で快感を感じる――つまり、目で美しいものを見る、あるいは耳で美しい音を聞く、舌でおいしいものを味わうと。鼻で素晴らしい香りをかぐと。あるいは肌触りのいいものを着たり触れたりすると。この感覚をいただいてるのは、その素晴らしさを供養するためなんだと。自分のためじゃないんだと。その感覚をもって――もちろん、だからといって快楽を追い求めてはいけないけども、そうじゃなくて自然に日々、皆さん生きてればいろんな喜びを味わうだろうから、その自然に味わう――まあ、繰り返すけど、食べ物を食べると。食べ物を食べるって、例えば粗食だとしても、粗食だとしてもおいしいよね。粗食だとしても別においしいでしょ(笑)。日本人はもともと、まあ、そうだな、日本人はっていうか、まあ例えばご飯だとしてもさ――わたしご飯好きなんだけど(笑)。ご飯ってさ、ご飯好きな人はね、おかずなくてもおいしいよね。で、仮に自分が貧乏でご飯しか食べられなかったとしても、それは関係ない。だってご飯だっておいしいから。で、それをまず感謝して、「わたしは神の恩寵によって今日も食事ができる」と。しかもここで――これはとてもおいしいと。ご飯だけだとしてもね。とてもおいしいと。で、そのおいしさ、喜びを、これを与えてくださった神に捧げますと。すべてただ供養します。自分は祭壇であると。もちろん何かの機会ですごくおいしいものを食べる機会があったら、それも同じ。
バクティヨーガとか大乗仏教の姿勢っていうのはそういう感じなんだね。いつも言ってるように。例えばサードゥとか、あと原始仏教とかは、徹底的に否定から入るから。でもバクティヨーガとか菩薩の場合はそうではない。もちろん追い求めちゃ駄目だけど、自然においしいものがやって来たら、「やったー!」と(笑)。「おいしそうだ」と。「これで最高の供養ができる」と。「こんな素晴らしい、おいしい供養ができるとは、わたしはなんと恵まれてるんだ」と思いつつ、そのおいしさを味わいつつ、そのすべてを供養する瞑想をしながら食べると。
ほかのものもすべて同じね。繰り返すけど、この世の快楽を求めちゃいけないんだけども、自然にやって来た、例えば、歩いてていろんな素晴らしい景色を見たとき、それもすべて供養と。あるいは、きれいな服を着ることになったと。これもすべて供養と。一切のこの世の喜びを供物と考えるっていうことだね。これはこれでとても素晴らしい。
だから常に、二十四時間、瞑想状態、供養の瞑想状態で生きると。供養だけじゃなくてもいいんだけどね。二十四時間、神に心を合わせると。そして、繰り返すけど、日々いろいろ経験するだろうから、神に意識を合わせつつ、ただ「神よ!」って言ってるだけじゃなくて、いろんな経験を、「あ、これを供養します」と、「あ、これを供養します」と――こういう感じだね。はい。まあ、これはわかると思うけどね。
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