yoga school kailas

解説「人々のためのドーハー」第一回(8)

【本文】

 瞑想することなく、世を捨てることなく
 家に住み、妻を持っていても
 感覚の喜びを楽しみ、それらを放棄しなかったとしても、
 完璧な叡智を呼び覚ますことはできると、サラハは言う。

 はい、ここも読み方を気を付けなきゃいけないよ。
 つまり、これはさ、別にもちろん、こういう欲望を追求しろっていってるわけではない。あるいは欲望を捨てたりすることが悪いと言ってるわけでもない。つまりこれは、何度も言うけども、つまりサラハはこういった一連の言葉を使うことで、なんていうかな、ガチガチのわれわれの観念――つまり修行者の観念的な頭をグジャグジャと揺り動かして、隙間を作ってるんです。ガジャガジャガジャガジャとね。だから、もう一回言うけど、言いたいことを読み取らなきゃいけない。つまり、単純に表面的な放棄とか、あるいはいろんな意味での修行ね、瞑想も含めた。それはもちろん意味があるんだけど、でもそれそのものに答えがあるわけではないっていうことですね。
 だからすべては――例えばある聖者が現われて修行の道を指し示したら、そこにはすべては理由があるわけです。つまり理由なくその修行がどんな条件下でも百パーセント万能だっていうことはない。例えばお釈迦様がある弟子に、この瞑想やれって言うとしたら、それは、その状況においての理由があるわけだね、当然ね。それを見た別の人がその瞑想をやっても、それは意味がないかもしれない。
 だからこれはほんとに、変なふうに読み取らないようにしてくださいね。なんか煩悩を楽しんで、「なんか最近あなた、修行不足なんじゃない?」「いや、サラハの詩にこう書いてありましたから」って(笑)、そういう変なエゴを肯定するような方向では読まないようにしてくださいね。

【本文】

 サラハは叫ぶ。存在の本性とは、存在でも非存在でもないと。
 もしそれが明らかに理解できるなら、何を瞑想する必要があるのか?
 もしそれが理解できないなら、瞑想しても、暗闇で手さぐりしているようなものだ。

 はい。だんだん、批判というよりも本質的な部分に入ってきてますが、「存在の本性とは、存在でも非存在でもない」と。「それが理解できるなら、瞑想は別に必要ない」と。「逆に理解できないなら、瞑想しても意味ないじゃないか」と(笑)。
 こういうものっていうのは、もう一回言うけど、エッセンスを読み取るようにしてください。これは、例えばこの一行もそうなんだけど、わたしはこれが何を言いたいかわかります。で、この中には少しわかる人もいるかもしれない。でも多分わかんない人もいる。でも例えばわたしがわかったとして、それを伝えるのも大変なわけだね(笑)。だから皆さん、エッセンスを読み取らなきゃいけないんだけど。
 ちょっと言うとね――そうだな、「存在の本性が存在でも非存在でもない」。これは、仏教でもよくいわれる究極の真理ですね。で、これは実際にわれわれが修行して悟らなきゃいけない境地。で、もう一回言うけども、それがもし悟られているとしたら、あるいはそれが分かってるとしたら、つまりそのために瞑想してるわけだから、もしその境地が手に入ってるんだったら、瞑想は必要ないですよと。その方法論にこだわってもしょうがないですよと。でも逆に、それが理解できないなら、つまり――だから、もうちょっとこれをかみ砕いて言うと、その瞑想がそこにつながらないならば、それは瞑想しても意味ないですよと。それは自己満足ですよと。座ってボーッとすりゃいいってもんじゃない、ということになるわけだね。
 これもだから例えば瞑想、あるいは修行のかたちに入って、それで自己満足してる人たちへの一つの――まあ、だからさ、皆さんの中にもそういうのってあると思うんだね。例えば瞑想を自分でして、まあ自己満足っていうか、それはそれである段階のいい瞑想なんだろけど、「ああ、これはいい瞑想である」と自分で思ってると。で、例えばですよ、これ、例えばの話ですよ。例えば、そうだな、ある人が、無になる瞑想とかを自分でやってたとしてね。それを日々やってると。で、それを一日一時間ぐらいやってたと。で、そこでわたしが、「君、そうじゃなくて、このマントラ唱えなさい」と、「この詞章を唱えなさい」と、言ったとするよ。「はい、じゃあこのマントラを三十分唱えて、このマントラを一時間唱えなさい」と。で、「あとムドラーもやりなさい」と言ったとするよ。で、それはわたしがその人のカルマとか状態を読んで言ったとするよ。でもその人は自分の例えば気持ちいい瞑想にとらわれてたら、それをやらないかもしれない。「ああ、先生、全然分かってないな」と。「この瞑想の価値を全く分かってない」っていって、自分でその気持ちいい瞑想に浸るかもしれない。それは確かに、気持ちいいっていうのは気持ちいいのかもしれない。でもそれは全く悟りにつながってないかもしれない。だとしたらそれはなんなんだと。それは、おいしいものを食ってるのと同じだよね。悟りにつながんないけど気持ちいい瞑想。悟りにつながらないけどおいしい食べ物(笑)。あんまり変わらないわけだね(笑)。だからその辺の、なんていうか、欺瞞っていうかな。君はだからなんのためにやってるんだと。修行ごっこで満足したいのかと。ね。あるいは、伝統的なことをやってるっていう優越感に浸りたいのかと。ね。そうじゃないんだったら、本質をちゃんとつかまなきゃいけない、ということだね。

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