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解説「菩薩の生き方」第十回(9)

 はい。じゃあ、だいぶ時間が過ぎたので今日はこの辺までにして、質問があったら質問を聞いて終わりましょう。はい、何か質問ありますか? 

(S)今日のテーマに多少関連する体験を昨日ちょっとしたので、どういうふうに理解していいのか迷ってるのでね、先生にお話をしたいと思ってるんですけど。昨日、ちょっとある買い物の帰りに地下鉄の階段を降りてたら、地下鉄の階段の手すりのところに、女の人が、わたしよりもちょっと年上の女の人が、結構身綺麗な格好をした女の人が立っていましてね。で、わたしの顔を見て、何か助けを求めるようなね、目つきをしたので、何か体調、気分でも悪くなって、で、何かわたしに助けを求めてるのかなと思って近づいていってね、「どうしたんですか?」って聞いたら、「お金を貸してください」と。「三百円」って言われた。「いや、財布を落として、電車で帰らなきゃいけないから」って言われたと。で、そのときにわたしの脳がね、要するにまあ、左脳的というか、世間知のわたしの脳がバッと回転してね、で、なんか新手の詐欺じゃないかって思ったんですよ、そのときね、なぜか。で、そうかもしれないしそうじゃないかもしれないし、「いや、それだったら交番が上にあるからね、ぜひ交番に行って事情を話して」って言ったら、「ああ、ありがとうございました」って言って、それは終わったんです。で、そこまではね、わたしの今までの日常のね、価値観と行動でね、まあ何も別に恥ずることはないんですが、ふと、待てよと、ちょっと思って、ちょっと後ろを振り向いたんですよ。そしたらもう全然見えなかった。もう影も形も見えなくて。で、結局、観世音菩薩じゃないかなって思ったんですね。で、結局、そういう固定概念でね、判断をしてるのはまだまだ駄目で、そのときに、お金が惜しくてもちろん断ったわけじゃないです、三百円なんかね。だけどそういう自分の脳っていうか感情がそういうふうに働くことに、「まだ働いてるぞ、おまえ」と。

(一同笑)

(S)お布施じゃないけども、なんか気持ちよく「ああ、どうぞ」って言ってね、やれる金額だし、やっても、なんのね、わたしに痛みもかゆくもないんだけども、そういうふうに動かないの、脳が。――ということをね、なんか教えてもらったのかなと。それがね、ずーっと引っ掛かっていたんですよ。で、今日ちょっとそんなね、布施の話になったから、ちょうどいいかなと思って。まあ自分でほんとは解決しなきゃいけないのかもしれないけど、ちょっとそれを一度先生にお聞きしようと思って、っていうのがあります。それは観世音菩薩だったんじゃないかなって気もね、まだ半分以上してるんですよ。

 いや、それはそうですよ。

(一同笑)

 まさにだからそれは『ナーローの生涯』の話ね。あの解説でも言ってるけど、ティローとナーローの物語っていうのは、つまりまずナーローがティローを探しに行くときに、ティローがいろんな別の姿で現われるんですね。で、例えば今の話とリンクするやつでいうと、まあ例えばライ病のね、ハンセン病の女性が道で横たわっていて。ナーローはもちろん哀れみは出た。もちろん蔑みじゃなくて哀れみは出たけども、でもやっぱりちょっと汚いし、臭いし、邪魔だし、っていう気持ちで、ちょっとまあ面倒くさい気持ちがあったと。で、その女性が「わたし動けないから、邪魔なんだったらわたしを飛び越えなさい」って言ったと。で、ナーローパは言われたとおりに飛び越えた。それ自体は別に恥ずることでもないし普通のことだったんだけど、飛び越えたあとにその女性がパーッと光を放って空に上がって、まあ、そこの場面でいうとね、「他人を見下げて、おまえを受け入れてくれるグルに出会えるわけがないだろう」っていう教えを説いて消えるんだね。で、ここでナーローは自分の中にあった小さな錯覚っていうか、別にその相手に対して悪い気持ちがあったわけじゃないんだけど、でもベストを取れなかったということで反省して、「ああ、グルがこういうふうに現われてくださったのに気付かなかった」と。「次こそは、どんなかたちでグルが現われても、それを認識して受け入れるぞ!」って決意するんだけど、あの物語見ると毎回失敗するんです。
 でもあれは、解説にも書いたけども、あの物語を見ると、はい、次これ、次これっ、て感じで見れるけど、実際には当然、日常の中にいろんな出来事があって、そこに混ざるような感じで来るんだね。日常のほんとに何気ないこととしてパッと来る。だから分かんないんですね。分かんなくて、ちょっと油断して対応してしまうと、実際はあれが自分を導く存在だったって分かるっていうのがあって。
 で、ちょっとSさんの質問に関して言うと、修行するとだんだんだんだんね、これもいつも言ってるけど、そういった――ほんとは、ほんとのことを言うと、全人類っていうかすべての人が、実際は自分と関係のある神や仏陀やグルに導かれていて、実際はいろんな意味で、いろんなかたちで、この日常生活の中にいろんなものがこう入り込んでいて、導かれてるんだね。でもそれは最初の段階では、われわれの頭が固過ぎて、あまりにもこの世をガチガチに見すぎてて、全く分からない。分からないどころか、なんていうかな、すべては心だから、自分の心に合ったようにしかこの世界が動かないようになってるんですね。でも修行とかしてると、そこにちょっと遊びができてきて、だんだん、世界がちょっとおかしくても大丈夫なようになってきて(笑)。言ってみればね。それによってもうちょっとストレートに、神の、あるいは自分を導く存在の――それはSさんが観世音菩薩というならば観世音菩薩なのかもしれない。あるいはほかの聖なる存在かもしれないけども――が導くのが、もうちょっと分かりやすく現われてくるようになるんだね。だからまさに今言った、Sさんみたいな経験をよくするようになります。まさにだからそれはいい経験ですよね。
 つまり、もう一回言うと、例えば、まあ、確かに現代においては警察っていうシステムがあるから、お金を落とした人に、「いや、警察行った方がいいですよ」って言うのは、これは悪くはない。しかしそこにおける、アクションっていうか行為における正解は、別に特にないんだね。そこで三百円出すのが正解だったっていうわけでもないし、それはどっちでもいいんだけど、でも心の中に、例えば、そうですね、ここでいったらさ、ラーマクリシュナの弟子とかみたいな、あるいはいろんな聖者――特にバクティ的な聖者っていうのはさ、みんなほんとに心が純粋で、まさに今言ったその、なんだっけ?――左脳か。左脳的な判断がなく、本当に純粋に、「あっ、そうなんだ! ハイ、三百円!」っていう(笑)、これくらいのものがあって然りなわけだね。しかし、まあ、それが、別に悪ではないけども、ちょっと現代的な、われわれの中に入り込んでるエゴによって、言い訳によって、それが自然にできない状況にあると。で、それをちょっとズバッと突かれるような経験をさせられて、で、振り向くともう消えていると。うん。これはかっこいい経験だね(笑)。うん。
 で、それをね、例えば――わたしがさっき「それはそうですよ」って言ったのは、まさにそれはね、もし直感的に「あ、観世音菩薩」と思ったら、それは信じてください。それによって次も動きやすくなります。つまり「これは偶然だ」とか思うんじゃなくて、「あ、観世音菩薩がわたしに気付かせるために現われてくださった」っていうことを心から信じることで、観世音菩薩は次もやりやすくなります(笑)。
 でも、ほんとにそうなんだね。ほんとにこの、茂さん側からいえば、茂さん側のその幻影のガチガチシステムがどんどん崩れていきます。だからそうするとどんどん神秘的になってくるけどね。まあ今回、さっきも、「カイラス、最近神秘的になってきたね」って言ってるのは、カイラスの場合は個の集合なので、誰か一人が神秘的でも駄目で、全体的にちょっと、なんていうか観念を超えた領域に入っていかないと全体は変わらないんだけど。だからわたしだけが「ん? この曲は女神の声が聞こえる!」じゃなくて(笑)、いろんな人が「あれ? 聞こえるじゃないですか。女神様が歌ってるじゃないですか」っていうような状態になってきたのは、全体がちょっと変わってきてると。うん。でも個々においてはまさに――今のSさんの話っていうのは分かりやすい話だったけど、みんなの場合も、そういう分かりやすい話だけじゃなくて、日常の、普通で考えたら合理的に見えるようないろんな出来事の背景に神の意思を探ると。うん。そして、あ、これも神がやってくれたんだなという感じで受け取っていくことによって、今言った、神の采配っていうか、それがより分かりやすいかたちで動くようになる。

(S)どうもありがとうございます。

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