2011年インド修行旅行記(18)「無執着の力強い翼」
ギッジャクータ山を下りた我々は、次に、町の中心地へと向かいました。
この町の中心地には、温泉精舎や竹林精舎などがあります。
竹林精舎も仏典によく出てくる場所で、お釈迦様や弟子たちが滞在した場所とされていますが、過去の経験で、それほど良い場所という感じではなかったので、今回は時間の関係もあって、巡礼から外しました。
温泉精舎も仏典に出てきます。実際に熱めの温泉が湧き出しているのですが、お釈迦様や弟子たちがよくここで身体を洗っていたようです。今はヒンドゥー教の寺院のようになっていると同時に、地元の人たちが身体を洗ったり洗濯したりする場所にもなっています。
我々はこの温泉に少し浸かった後、その横にある道を通って、山を登り、ある場所へと向かいました。
話は約10年前、私が初めてこのラージギルを訪れたときにさかのぼります。
そのとき私は、念願のギッジャクータ山を初めて訪れ、その素晴らしいヴァイブレーションに感動した後、次に、「第一結集の場所」を訪れようと思いました。
第一結集とは、お釈迦様の死後、お釈迦様の教えを正確に残すために、500人の解脱した弟子たちが集まっておこなわれた、仏教の教えの一番最初の編纂会議のことです。
といっても、この頃は文字として書かれた仏典などは存在せず、教えは皆、口頭で口から耳へと伝えられていました。それだけ皆、記憶力が良かったのかも知れませんが、逆に言えばそれだけ、教えが間違って伝わってしまう危険性もあったので、このような会議が行われたわけです。
この会議において、まず侍者として常にお釈迦様に帯同し、最も多くお釈迦様の教えを聞いたアーナンダという弟子が、「このように私は聞きました」と言ってお釈迦様の教えを述べ絵、解脱した500人の弟子たち全員が「それはまさにお釈迦様の教えだ」と認めたものだけが、経(スートラ)としてまとめられたとされています。
この話は面白いですね。というのはお釈迦様の教えは待機説法とされますから、アーナンダが知らなかった教えも当然あったろうし、また、500人の弟子の一部しか知らない教えも当然あったでしょう。しかしこの第一結集のやり方が本当だとしたならば、それらの教えは教えとして残されなかったということになります。
ブッダガヤーの項でも書きましたが、お釈迦様の教えは、今残っているパーリ仏典や阿含経典などの中には実は十分に表現されていないのではないかというのが、私の直感です。そしてこの第一結集のエピソードも、この説を裏付けるものであると思います。
さて、そういう私の考えもあって、実は私はあまり「第一結集の地」というものにはそれほど興味がなかったのですが、しかしせっかくラージギルに来たのだから後悔のないように行ってみようと思い、初めて来たときに、何となく仕入れた「温泉精舎の上のほう」という曖昧な情報だけで笑、フラフラと第一結集の場所を探していたのでした。
結局、第一結集の場所は見つからなかったのですが、その代わりに、素晴らしい場所を発見しました。
温泉精舎の横の道を通って山をしばらく登ると、丘の上の広場のような場所に出るのですが、ここがものすごく素晴らしいヴァイブレーションなのです。
視界が大きく開け、地平線が見えるその景色も素晴らしいのですが、それだけではなく、ここにいると、強烈に心が解放されるのです!
ここはいったい何なんでしょう?――全く仏教の歴史の中には出てきませんが笑、ここもまた、お釈迦様やその弟子たち、あるいは後の偉大な修行者などが修行した、知られざる聖地なのかもしれません。
そういうわけで私はラージギルを訪ねたときはいつも、この「温泉精舎の上の丘の上の聖地」も訪ねることにしているのです。
しかも面白いことに、ここに来ると、いつも私は同じ心の状態になるのです。
それはとても大切な経験で――いつもここに来て、思い出すのです。
それは、あえて言葉にするならば、
「無執着の力強い翼」
――とでもいうべき心境です。
無執着というのは、決して、無気力でも、無でもない。
無執着から生じる力強いエネルギーがあり、
それが大いなる、力強い翼となって、
我々を、広大なる空性の空へといざなってくれる!
私は自由だ!
束縛するものはすべて捨て去った!
捨てれば捨てるほど良い!
なければないほど良い!
プライドも、自我意識も、執着や嫌悪も、あらゆる「私のもの」も、
なければないほど良い!
そういう意味では、恐れるものは何もない。
私のいろいろなものが壊れること、
失うこと、
これらは祝福以外の何ものでもない。
だって、なければないほどいいのだから!
この「無執着の力強い翼」は、
完全に力強く、自由であり、歓喜である。
このような心境で私は、座ったり寝転がったりしつつ、瞑想にふけりました。
皆もこの場所のすばらしさを同様に感じてくれていたようで、しばらくの間、思い思いに瞑想していました。