yoga school kailas

集中、自然、歓喜、解放

 怒りが生じたとき、そのエネルギーに集中すると、瞬間的に怒りは消え、歓喜に変わる。
 怒りが強ければ強いほど、それは強い歓喜となる。

 執着や煩悩などの雑念が生じたとき、それに集中すると、瞬間的に煩悩は消え、覚醒した光り輝く意識となる。
 多くの雑念が生じた場合、それらに同時に集中すると、雑念が多いほど、至福に満ちた覚醒の意識が広がる。

 これらの集中は最初は難しいが、慣れてくると容易になる。

 そしてさらに進むと、意識的に集中しなくても、自然に、日々、怒りのエネルギーは生じた瞬間に歓喜に変わり、雑念は生じた瞬間に智慧に変わる。

 この状態が持続すると、まるでラーマクリシュナのように、日々普通に活動しているときにいきなり歓喜に襲われて深い瞑想に入ってしまったりするので、なれないと大変です(笑)。

 こういったことを私が最初に経験したのは、15年ほど前でした。そのころ、そういった体験をまわりに話しても、理解してくれる人はほとんどいませんでしたが、ある人にその体験を話したところ、「それはチベット仏教のゾクチェンでも同じようなことを言っている」と教えてくれました。しかしそのころ出版されていたゾクチェン等の本を読んでも、そのようなことは書かれていませんでした。
 しかしその後に出版された本やネットにおけるゾクチェンや他のチベット仏教の記述の中に、確かに私が経験したものと同様の既述を見つけました。
 しかし同時にそれらを読んで、「これは誤解されやすいな」と感じました。それを経験したことがある私が、それを経験する前の自分を顧みながらそれらを読むと、以前の私なら、完全にその真意を誤解し、単に言葉遊びに陥るか、間違った道に入ってしまっていたなと感じました。

 最近は私のヨーガ教室でもインストラクターが増えたので、私は自分の修行時間も以前よりとれるようになり、上記のような状態をいい感じで持続させることができるようになってきました。このような状態は、机上の概念ではなく、本当に圧倒的な体験として存在するのです。しかし現実的にその領域に入るには、徹底的な基礎的修行の修習が不可欠であると思います。

 導いてくれる師やブッダや至高者への帰依・供養・懺悔、呼吸法その他の身体行、正しい教えの教学、功徳、戒律、日々の生活の中での教えの実践と自己の心の統御、念正智、基礎的なマントラや詞章や瞑想修行、忍辱の修行・・・これらの修行を日々地道に固めていくことで、本質的な達成の土台が整います。あとは師やブッダへ「おまかせ」すると良いでしょう(笑)。動機(菩提心)が正しく、帰依が誠実であれば、必ずすばらしい境地へと導かれるでしょう。

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