随筆マハーバーラタ(6)「あざなえる縄のごとく」
いよいよドゥルヨーダナのパーンドゥ兄弟に対する謀略も激しくなってきて、ついにはパーンドゥ一家全員を焼き殺そうとします。
何とかその策略から逃れたパーンドゥ一家は、放浪の生活に入ります。様々な困難を乗り越えて苦悩のうちに旅を続けるパーンドゥ兄弟の前に、聖者ヴィヤーサが現われます。
聖者ヴィヤーサは、この物語の要所要所にたびたび現われ、良い忠告を与えています。
実は「要約・マハーバーラタ」は、話をわかりやすくするために、細かいエピソードで省略している部分が多々あるのですが、この聖者ヴィヤーサ、実はパーンドゥ兄弟とクル兄弟の祖父でもあるのです。
このときも聖者ヴィヤーサは、パーンドゥ一家の苦難の話を聞いて、パーンドゥ兄弟の母クンティーに、次のような良いアドヴァイスを与えています。
「いかに徳のある者といえども、過去にひとつも罪を犯していないものはいない。
いかなる罪人といえども、常に悪の中にとどまっておられるほどの悪人はいない。
人生はあざなえる縄のごとくで、この世の中に、過去に一度も善をなしたことのない者はいないし、また過去に一度も悪をなしたことのない者もいない。
いかなる人間も、己の行為の結果は自分自身で受けねばならぬもの。さればこそ、悲しみに負けてはならぬぞ。しっかりしなされ。」
これはとても含蓄のある良い言葉ですね。
しかも様々な角度から教訓を得ることができますね。
まず、あなたがパーンドゥ兄弟のように善人である場合。あるいは修行者である場合。あるいは正しく生きているという自信がある場合。
仮にそれが事実だったとしても、今のあなたがそうだったとしても、過去はどうだったのでしょうか? 過去世とまで行かなくとも、今生の過去だけを振り返っても、様々な過ち、悪を犯してきたことでしょう。眼を覆いたくなるような、忘れたい、なかったことにしたいような(笑)こともたくさんあったでしょう。
それらの悪業、過ち、悪しき思い。――こういったものは悪因としてその人の中に根付きます。この悪因という種は、やがて芽を出し、それを本人が刈り取らなければならないのです。
よって、悲しみ・苦しみに負けてはならないのです。それは自分が作った因なのですから。堂々とその悲しみ・苦しみを受け入れ、文句を言わず、心を動かさず、耐えるべきです。
なぜなら、そこで心を動かしたり、文句を言ったり、あるいは新たな報復などをしてしまうと、また新たな悪因が積まれ、今の自分の善の傾向さえも脅かされかねないからです。
だから「正しく生きよう」と思う者は、耐える時期が必要なのです。妥協して生きる者には、このような試練は必要ありません。「正しく生きよう」とするからこそ、必要な試練なのです。ですからそれに負けないように、心を強く持ち、進まなければならないのです。
ヨーガや仏教というのは決して、安易な癒しの道ではありません。自己の心を鍛え、堂々と苦しみに立ち向かっていくだけの強い自分を作っていく道です。
強い自分といってもそれは、鎧を着たような強さではありません。真っ裸で強い、内面的な、素朴な、柔軟な強さです。
心を解放し、柔軟にし、正直にし、清らかにしたときに現われる、不屈の強さです。
今、心が弱い人も、ヨーガや仏教などの正しい実践によって、そのような純粋で強い心を育てることができます。そういった心をもって、過去に自分自身が作った悪因を刈り取るために、苦しみに耐え抜く時期が必要なのです。
ですから、自分が正しい道を歩いているという自信がある人こそ、人生に生じる様々な苦難や困難には、喜んで耐えるべきです。
さて、二つ目の教訓としては、これはお釈迦様の一番弟子のサーリプッタも同じことを言っているのですが、今悪人である人が何かのきっかけでコロッと善人になる場合もあるし、その逆もあるということです。
だから、「私は善人である」などという慢心を持つべきではありません。仮にそれが事実だとしても、いつ、どんなきっかけで、悪の道に転落してしまうかもしれません。
逆に、悪人と呼ばれる人も、すぐ近い未来にはあなた以上に善を積み、大聖者となる可能性もあるのです。
だから自分自身に関しては、決して気を抜いてはいけません。
他人に関しては、決して見くびったり、見下したりしてはいけません。
さて、三つ目の教訓としては、二番目の教訓と重なる部分もありますが、いかに悪人といわれる人でも、過去に一つも善をなしたことのない人はいないし、ずっと悪を積み続けられる人もいないということです。
だから、他人が何か悪をなしたのを見ても――それがどんな大きな悪行であろうとも――その人を「悪人」と断罪すべきではありません。
まず前述のように、自分自身に、他人を「悪人」などという資格があるのかどうか、考えなければなりません。もし過去に一度も悪をなしたことがなく、またこれからも絶対に悪をなさないという自信がある人ならば、他者を「悪人」と非難するのも許されるかもしれません。しかしそんな人はいないのです。
そしてその「悪人」といわれる人だって、自分の知らないところで、多くの善い事もやっているかもしれません。もし生まれてから今までの善と悪の数を数え上げたら、自分よりもその人の善のほうが多いかもしれません。
だから他人を見くびってはなりません。一見ぱっとしない人の中に、どんな徳が隠れているかわからないのです。
もちろん、その逆もあります。善人に見える人が、実は多くの悪を持っている場合もあります。
しかしそんなことは、どうでもいいのです。重要なのは、「どんな人の中にも善を見る」訓練です。
客観的にその人がどのような人か、完全にありのままに見えるのは、ありのままの智慧を持った、聖者以外にはありません。
では、普通の人は、何を見ているのでしょうか? それはただ鏡を見ているに過ぎません。あなたが他人の中に汚れや悪を見るとき、それは自分の中にある悪や汚れです。これは例外のない真実です。その真実を受け入れてください。
もちろん、実際に何か現実的に対処する必要がある場合は、対処しなければなりません。また、お釈迦様は、「悪友とは付き合うな」と言いました。これも真実です。一緒にいると自分も悪に染まってしまうような人とは、付き合うべきではありません。「どんな人にも善を見ろ」というのは、「どんな人の言うことも聞き、付き合え」という意味ではありません。その辺は現実的には、智慧をもって対処をしなければなりません。
しかしそのような場合にも、心においては相手を完全に「悪人」であるとは断罪しないことです。逆に、彼に見える悪は自分のけがれだと認識し、どんな人の中にも善を探す訓練をするべきです。必ずどこか、善いところはあるはずです。
もし本当に自分の心が清らかになるなら、周りに悪人を発見することができなくなるでしょう。
もともとどこにも悪人などいないのです。悪しきカルマに支配された、哀れな衆生がいるだけです。そしてそれは自分もそうなのです。だからわれわれは助け合い、励ましあいながら、この悪しきカルマの縁起の中から、ともに脱出しなければいけないのです。われわれ衆生同士がいがみ合うなら、それこそ、悪魔の思うつぼでしょう。
おそらく、この文章を見て、ここまで読む縁があったあなたは(笑)、菩薩の縁が少なからずある方だとおもいます。そのような人には、責任があります(笑)。まずあなたが周りを非難するのをやめ、周りに愛を向け、そして自己の心の浄化に励み、多くの衆生が救われる礎となってください。
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