鏡のヨーガ
スターウォーズの中で、ヨーダのもとで修行をしているルークが、森の中でダースベーダーの幻と出会い、その首を切り落としたところ、それがルーク自身の顔になっていた、という場面があります。
この場面については以前、「カルマの法則」という解釈で取り上げた方もいましたが、また別の角度から検討すると、これは「すべては自己の心の鏡」という仏教の教えに通じるものがあるといえるでしょう。
この「すべては自己の心の鏡」という考え方は、私は「鏡のヨーガ」と呼んでいますが--外側の現象にはなんら実体はなく、すべては自分の心が鏡に映ったようなものに過ぎない、というものです。
これは、よく使われるたとえを使って説明しましょう。
たとえばここに、あなたと友人がいて、大小二つのりんごがあったとします。
ここでその友人が大きいほうのりんごを取ったとき、もし「あいつは意地汚い」という思いがあなたに浮かんだならば、それはまさにあなた自身が、意地汚いのです。
なぜなら、もしあなたに意地汚さ、むさぼりの心というものが全くなかったならば、相手が大きなりんごを取ろうと、「意地汚い」という思いは浮かびようがないからです。単に「ああ、彼は大きなりんごをもらえてよかったな」と思うだけでしょう。
この法則が、すべての他者への反応に応用できるのです。
すなわち、誰かに対して邪悪な印象を持つならば、そう思った人自身の中に邪悪さがあるからです。
誰かを傲慢だと思う人は、その人自身の中に傲慢さがあります。
他人の嫉妬心がよく見える人はその人自身が嫉妬深いし、他人の自己中心的なところが気になる人は、実はその人自身に自己中心的なところがあるのです。
たとえば野生の動物を捕まえてきて、全面鏡張りの部屋の中に置いたらどうでしょうか?
その動物は、鏡に映る多くの自分自身の姿を、自分自身とは気づかずに、吠え、あるいは恐怖し、威嚇し、あるいは逆に執着するかもしれません。
これが我々の姿なのです。
我々が、鏡の部屋の中で戸惑う動物を見て、「全部自分なのにバカだなあ」と笑っているように、神々も、他者との関係で喜んだり苦しんだり、期待したり恐怖したりしている我々を見て、「全部自分なのにバカだなあ」と笑っているかもしれません。
さて、ということは、ここに心が清らかで、他者への思いやりと慈愛にあふれ、一切の執着も怒りも恐怖もない人がいたとしたら、その人にとって、この世はどう見えるでしょうか?
すべてが愛にあふれた、すばらしい世界に映るでしょう。その人の住む世界はどこであろうと、至福の世界になるでしょう。
だから我々は、自己の心の浄化に励まなければならないのです。
そしてこのような人は、他者にも良い影響を与えます。
なぜならこのような人の存在は、他者の中に眠る慈愛や幸福の要素をも、引っ張り出してくれるからです。
このような人になりたいですね。
自らはどこにいようと至福の世界に生き、
そして他者をもその至福の世界へと自然に導きいれる。
そのような人になりたいですね。
もちろんいきなりそのようにはなれません。だからまずは、他者の中から多くを学ぶ姿勢を心がけることです。
他者の中に悪を見たならば、それは自分の心の悪が鏡に映っているのだと考え、反省し、自己の心の浄化に励みましょう。
他者の中に良い部分を見たならば、それを喜び、称賛し、自分の中にある同じ部分を増大させるように心がけましょう。