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記憶の浄化と解放


 たとえばさっき怒っていたのに今は笑っているとか、昨夜と今朝で性格が違うとか、そういうことはよくあることです。
 この場合、たとえば昨夜のじめじめした自分と、今朝のおおらかな自分は、全く違う存在であるとも言えるわけですが、なぜ我々はここに、昨日・今日・明日と貫かれる自我意識、アイデンティティ(自己同一性)を持つのでしょうか?

 それは「記憶」のせいであるということがいえるでしょう。
 たとえば、一週間前に親とケンカした「私」が、一昨日、学校で先生に怒られ、その「私」が昨日、友達に慰められ、その「私」が昨夜、友達に誤解され、その「私」が今朝、友達と和解し・・・というように、一貫した記憶の流れがあり、その記憶に依存するかたちで「私」というアイデンティティがあるように感じています。しかしそれはただの記憶なのです。

 ただの記憶ということは、それはただの実体のないイメージであるともいえます。こんなに不安定なことはありません。たとえば記憶の混乱、記憶の勘違いというのもあるわけですから。

 いや、個人の記憶とは関係なく、客観的な他人からの同一的認識があるではないか、というかもしれませんが、それこそ不安定というか不確実なものです。「私」という意識の中では、「客観的」とされる他人からの言葉も、自分が作り出した主観的な夢の中での一つの音に過ぎないわけですから。

 つまり「私」という夢を作り出しているものは「記憶」であるといえます。
 そしてこの「記憶」も、何か芯があるわけではありません。たとえば蓑虫の周りに木の皮などがくっついていくというようなものではなく、ただの埃に埃が積み重なっているようなものです。まさにタマネギのように、全部むいていくと、中には何もないのです。

 そのような「記憶」の積み重ねの流れに対して、まあヨーガ的な言い方をすれば「真我」が、「私」という錯覚を持ってしまっているのが、今の我々の状態です。
 よってこの記憶からの解放こそが、解脱であるといえます。 
 
 では、記憶喪失は解脱なんでしょうか笑? それは違います。記憶喪失しても、その人に特有の一定の性格や性質は残るはずです。つまりそれは、表層的ではない、もっと深い潜在意識的な「記憶」があるからです。そしてこの潜在意識的な記憶こそが、我々の性格や感情を作り上げます。

 たとえば誰かに優しくされて喜んだ次の瞬間、「でもそういえば昨日、こいつはこんな嫌なことをやってきたな」と思った瞬間、喜びは消えて嫌な気持ちになったりすることがあります。これは表層的な記憶によって感情が変化したパターンですが、これと同様のプロセスが、無意識下の潜在意識においておこなわれているのです。

 よって記憶喪失になればいいというわけではなく、潜在意識も含めた記憶からの解放が解脱であり、そこにはヨーガ的にいうならば真我、仏教的にいうならばニルヴァーナ、大いなる空、心の本性といったものしかなくなるのです。

 しかしこの解脱の話は最後の話であって、その前に我々にはやらなければならないことがあります。それは記憶の浄化です。

 簡単に言えば、
・解脱には時間がかかる。
・そもそも記憶が浄化されないと、記憶からの解放はない。
・解脱しても、肉体をこの世に置いている間は、ある程度は記憶に依存する。
・菩薩道を行く場合は、ニルヴァーナを求めないので、良いアイデンティティを培わなければならない。

 以上の理由から、記憶からの解放を求めつつも、同事に、まずは記憶の浄化に励むべきなのです。

 そしてもともと仏教やヨーガの教えに出てくる「念」という言葉、これはサンスクリット語でスムリティ、パーリ語でサティといいますが、この本来の意味は「記憶」なのです。
 最近流行っている南方仏教の修行法の「サティ」では、今自分が何をしているかを自覚するという意味でのサティを推奨するところも多いようですが、私は、それよりも本来的な「正しい記憶」という意味でのサティをしたほうがいいと思います。
 たとえば「私は食べている、食べている」と自覚しながら食事をするよりも、「ブッダに供養します。神に供養します」と念じながら食事をするほうが、何百倍もメリットがある、ということです。

 この場合のサティ、スムリティ、すなわち正念、正しい記憶には、三つくらいのアプローチがあると思います。

1.神仏などのイメージの記憶の繰り返し
2.教えの記憶の繰り返し
3.経験に対する正しい認識の繰り返し

 1番目は、たとえば日本仏教でやる念仏などもこれにあたりますが、ブッダや神のことをいつも念じるということです。イメージの世界、つまり中程度の潜在意識の世界を、神聖なイメージでいっぱいにしてしまうということです。
 この修行においては当然、逆に、自分のイメージをけがすような情報はできるだけ入れない方が良いということになります。

 2番目は、実際に正しい教えを学び、何度も繰り返し学び、心に植え付けるということです。

 3番目は、実際の日常の経験の中で、学んだ教えに基づいて認識をするように気をつけるということです。
 たとえば人から悪口を言われたとき、本来の自分の「記憶」に基づいた反応では、「怒り」「悲しみ」などの反応が出てくると思いますが、それをぐっと押さえ込み、教えに基づいて、「感謝」「許し」「愛」「慈悲」などの反応を返すのです。この繰り返しによって、自分のアイデンティティを構成する「記憶」は浄化され、とても幸せな人になっていくでしょう。
 

 さらに付け加えるならば「カルマ」さえも記憶の産物だということがいえます。
 悪いことをやると苦しみが返り、善いことをすると幸福がやってくる、これがカルマの法則ですが、たとえば悪いことをやった後に苦しみの現象を起こしているのは、実は他ならぬ自分自身なのです。
 この辺は深い話になるのでこれ以上はあまり突っ込みませんが、簡潔にいえば、この世はすべて自分が作り出した夢に過ぎないということです。そしてここでいう「自分」は自由な王のような存在ではなく、「記憶」の奴隷になっているというところに、問題があるのです。
 
 ということは我々が記憶の奴隷となっていなければ、カルマの法則は関係なくなるのでしょうか? その通りなのです。
 しかしこれは、よくいわれるような、「究極的には善も悪もないんだ」などと口で言っているだけではダメです。必要なのは、善悪の認識からの解放というよりも、苦楽の認識からの解放、そして希望と恐怖からの解放です。
 これら無しに、単に善悪の認識を超えようとすると、単に悪いカルマに翻弄される、カルマの悪い人になってしまいます。
 ここにおいて必要なのは、希望と恐怖を持たず、苦しみも喜びも平等に見て、目の前にやってくることをすべて神仏の愛と見て受け入れて、なすべきことを行動するという発想です。そしてこの道がカルマ・ヨーガであり、カルマから解放される道ということになります。

・カルマヨーガによるカルマからの解放

・三つのアプローチによる記憶の浄化

・記憶の支配からの解放

 この三つの修行を頑張ってください。

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