解説・スフリッレーカ(1)「王様への手紙」
2007.8.01 スフリッレーカ①
◎王様への手紙
今日からはまた新しいシリーズで「スフリッレーカ」。これはナーガールジュナの作品ですね。
ちょっと簡単に説明すると、これは仏教の論書です。ナーガールジュナというのは、大乗仏教の実質上の開祖みたいな人です。
大乗仏教というのは、歴史的にいうと、まずお釈迦様の仏教があって、お釈迦様のあとを受け継いだ弟子たちが、数百年、仏教というのを受け継いできたわけだけど、どんな教団でも教祖が死んでしばらく経つと、内部的ないろんな悪いところが当然出てくるわけですね。その中で、あまり衆生のことを考えず、寺にこもって自分たちで学問研究ばかりしている僧たちを内部批判して、そんなんじゃ駄目だって主張する人たちが現われた――これが大乗仏教と後にいわれる人たちですね。
大乗仏教というのは、最初はあまりちゃんとした理論はなかったんだけど、だんだんその経典とかが出てきて、それがみんながよく知っている『般若心経』に代表される『般若経』の経典群とか、あるいは『法華経』とか『華厳経』とかもそうだけど、そういうのがいっぱい出てきたわけだけど、それら大乗仏教の理論体系を最初にしっかり整えた人がナーガールジュナです。
だからすべての今いわれている大乗仏教とか密教などの理論というのは、もとをたどれば大体このナーガールジュナに行き着くというぐらいの人だね。
ナーガールジュナが残した作品ってたくさんあるんだけど、大体大別すると二つに分かれる。一つは空の理論について説かれた、ものすごく難解なものね。もう一つはそうじゃなくて、仏教の全体像を分かりやすく説いたもの。
で、このスフリッレーカはその後者です。仏教の全体像を説いています。これはこの間やった『ラトナーヴァリー』と同じで、もともとは友人であり信者である王様に対して宛てた、私的な手紙だったといわれています。つまり友人であり信者である王様に対して、「こういうふうに生きなきゃいけませんよ、こうしなさい」っていう手紙を書いた。それが後に経典としてまとめられたと。だから難しい「空とは何か」というそういう話ではなくて、王様にも分かるように説かれているので、仏教の全体像をつかむのにいい経典だね。
これは読んだら分かるけど、大体ここで何回か勉強会に来ている人は、多分もう分かっているような内容が多いです。だからそういう人にとっては、復習みたいな感じだね。仏教の基礎の復習みたいな感じになると思います。
◎ブッダの十号
【本文】
マンジュシュリー童子に礼拝し奉ります。
徳があり、幸ある者よ。スガタが説かれた教えに基づいて、功徳を積むために、私がほんの少しばかりまとめた、以下のアーリヤー韻律の詩句を、あなたはお聞きください。
まず「スガタ」と出てきましたが、ここでいうスガタというのはお釈迦様のことです。これは「十号」とか「十力者」とかいうんだけど、お釈迦様というのは十の力を持っていると。それに応じた十の名前を持っているんだね。
お釈迦様の弟子というのは、大体「阿羅漢」とだけ呼ばれることが多いんだけど、お釈迦様は十力者といって、十の名前を持っている。これは単なる名前ではなくて――本文と関係ないところで若干話が膨らみますが――お釈迦様の解脱と弟子の解脱は違うんです。
実は現代のテーラヴァーダの人たちの中には、お釈迦様の解脱と弟子の解脱は同じだというふうに説く人もいます。でも明らかに原始仏典を研究するならば、違います。それがこの十号であらわされるんだね。
弟子は阿羅漢としか呼ばれない。でもお釈迦様は十の称号がある。この十の称号というのは、お釈迦様が身につけている十の解脱のステージをあらわしている。
ちょっと簡単にいうと、まず一番目が「阿羅漢」。この阿羅漢というのはアラハットというんだけど、直訳すると「応供」とかいうんだけど、つまり供養に応じる、供養に値する人という意味なんです。供養に値する人――つまり、信者の供養を受けるに値すると。
この「供養に値する」ってどういう意味なのかというと、まず条件の一つとしては、心が透明である――つまり煩悩がないということだね。で、もう一つは、光が強い。
これはなぜかというと、供養――つまりお布施をしたりとかいろんな供養をした場合に、心が透明なのでけがれというものが混じりこまない。――つまり供養するということは、カルマの法則によって、その徳が供養した人に返ってくるわけだけど、けがれを持った人に供養すると、けがれも一緒に返ってきてしまう。例えば、ちょっと貪りが強いお坊さんとかに供養したら、貪りのカルマも自分に返ってしまう。しかし阿羅漢は透明だからそういう心配がない。
もう一つは、光が非常に強い。光が強いということは、わずかな供養が倍増して返ってくるといわれている。
だから逆にいうと、五逆の罪――つまり最悪の無間地獄に堕ちる罪の一つとして、「阿羅漢を殺す」ってあるんだね。つまり阿羅漢を殺したら、無間地獄行きですよといわれている。これはちょっと、ある意味不平等なわけだね。普通の人を殺しても無間地獄には堕ちない。でも阿羅漢を殺すと無間地獄に堕ちる。それはもちろん阿羅漢というのは、多くの人を救える可能性があるから、そういうのをつぶした悪業は大きいという意味もあるんだろうけど、それだけではなくて、阿羅漢の光が非常に強いので、阿羅漢になした悪業も何倍にも倍増されて返ってしまう。徳も何倍にも倍増されて返ってしまう。だから心が透明であり、光が非常に強いという意味で、供養に値する聖者――阿羅漢というんだね。
◎等正覚からブッダまで
はい、次に二番目「等正覚」――ちょっと日本の仏教語って難しいんだね。無意味に難しいというか(笑)。なんでわざわざこんな難しい読み方とか字を当てるんだっていう感じがするんだけど。等正覚――簡単にいうと、最高の悟りを得た者という段階です。つまりこの言葉だけを見ても、悟りには段階があると分かる。悟りには段階があるんだが、お釈迦様の段階というのは、もちろん最高の悟りを得ていますよと。
次、「明行足」。明行足というのは、簡単にいうと、智慧と徳を完成した人です。智慧も完全に完成しました。徳も完全に完成しました。つまり智慧と徳というのは、よく修行の両方の翼といわれるんだけど、智慧というのははっきり言うと、この世と関係ないんです。ここでいう智慧というのは空の智慧。つまりこの世を超えた本質を悟る智慧。徳というのは、この世――カルマの法則という限定的な法則の中で、最高に徳を満たすということだね。この相対的な世界の徳の力と、それから絶対的な智慧の世界を両方とも完成した人。これが明行足といわれているね。
だからお釈迦様の弟子には、単にニルヴァーナに入る――これだけを目指している人もいるから、この場合はあまり徳はいらない。なぜ徳がいるかというと、当然人々を救うためだね。その人がもしニルヴァーナに入りたいんだったら徳はいらない。でもこの世で実際に活動して、多くの人に影響を与えたいんだったら徳が必要なんです。その徳においても完全に完成している。そして智慧においても完成している。これが明行足だね。
四番目が「スガタ」です。スガタというのは、これは直訳すると「ス」というのは善いとか正しいという意味で、「ガタ」というのは逝くという意味なので、「善く逝く」とそれだけなんだけど。意味としては、最高のところに行く人という意味です。ここでいう最高のところ――大乗仏教における最高の境地・世界というのは、よく無住処涅槃とかいうんだけど――つまりニルヴァーナでもない、輪廻でもない。
これはここでも何回か言っているけど、こういう美しい言葉があって――「智慧によって輪廻にいることができない。慈悲によってニルヴァーナにもいられない」と。これが最高なんだね。智慧があるから輪廻から離れてしまう。でも慈悲があるから、自分だけが寂静というニルヴァーナにもいれないと。その人はどこにいるのかよく分からないと。これが無住処涅槃というんだけど、この境地が最高の境地。で、そこに逝く者――というか逝っている者ということだね。
はい、そして五番目が「世間解」。世間解というのは、実際は世間というよりも、これはローカというんだけど、世界といった方がいいんだけど――世界を完全に理解した者。これも一般的な弟子のレベルとお釈迦様のレベルの違いをあらわしています。つまり三界――欲界・色界・無色界。そして欲界にもいろんな世界がある。色界にもいろんな世界がある。無色界にもいろんな世界がある。でもこの大宇宙のあらゆる法則を、ただ解脱したいだけなら、知る必要はないんです。つまり突き抜ければいいだけだから。この迷いの世界を突き抜けて、ニルヴァーナに道を通せば、悟りとか解脱は完成する。でもお釈迦様はそうじゃなくて、あらゆる世界に生まれ変わり、あらゆる世界を理解し、あらゆる世界の法則に則った教えを説くことができる。だから世間解なんだね。その世界を完全に理解しきった者。
次が「無上士」。これは「アヌッタラ」っていうんだけど、まあこれは言葉どおり、無上、これ以上の上がない、最上の者ということだね。
次が「調御丈夫」。これもちょっと難しい言葉なんだけど、これは簡単に言うと、普通の人・普通の魂を調御することができる人ということです。つまり普通のまだ悟りに目覚めていない人を、うまくコントロールして悟りに持っていくことができる人ということです。これも単なる個人的な悟りとは関係がない。自分が悟ることができても、人を導くことはできないという人はもちろんいるわけだから。そうじゃなくて完全に人を導く術を備えた人ということだね。
次が、「天人師」。天人師というのは、天つまり神々と人間の師匠ということです。仏陀というのは、人間の世界と神々の世界を行ったり来たりしながら導くといわれている。もちろんお釈迦様の過去世では、動物界に生まれ変わって動物を救ったっていう話もあるけども、基本的には人間界と天界を行ったり来たりしながら、弟子たちを導いていく。だから天と人間の師なんだね、天人師。
次が「仏陀」です。ここでいう仏陀というのは――お釈迦様のような救済者としての修行を完成したという意味での仏陀です。
◎世尊
最後が「世尊」。世尊というのはこれはバガヴァッド・ギーターのクリシュナと同じでバガヴァーン。バガヴァーンとかバガヴァットっていうんだね。あるいは如来も同じ意味です。如来というのはタターガタというんだけど。この仏陀と世尊の違いは、境地としては同じだといわれています。つまり仏陀というのは、完全な完成者。世尊も完成者なんだけど、この違いは、仏陀というのは師匠に導かれて仏陀になった人。これは仏陀といいます。世尊というのはお釈迦様みたいに、最初は師匠がいたんだけど、最終的には一人で完成した人を世尊といいます。
「じゃあなんで一人で完成できるの?」っていう問題がありますが、つまり、実はこの人はもともと完成しているんです。過去世からすでに完成している。ただ人々を導くためだけに現われた完成者――これを世尊といいます。
この世尊というのは、十億の宇宙にただ一人といわれます。これはどういう意味かというと、仏教理論では――ヨーガでもそうだけど、この宇宙というのは小宇宙がたくさんあるというんだね。この小宇宙というのは、絵にするとね、こう曼荼羅みたいな何重もの輪っかみたいな形をしているんだね。仏教の宇宙観だと。だからこれはわたしは現代的にいうと、多分銀河系とかのああいう星雲じゃないかと思うんだけどね。分からないけどね、現代宇宙的にいうとね。そういう星雲みたいな形をした小宇宙がたくさんありますと。その十億の小宇宙に一人ずつ、つまり担当なんだね(笑)、世尊がつくと。
この世尊というのは完成者だから、いろんな形でこの十億の宇宙を守護し、導いている存在だね。これは十億の宇宙につき一人しかいない。もちろん他の十億の宇宙にはまた違う世尊がいるんだけど。
で、われわれのこの地球を含むこの宇宙の担当は、お釈迦様。で、次がマイトレーヤだといわれています。どこで入れ替わるのかよく分からないけども、少なくとも二千五百年前にお釈迦様が世尊として現われた。次はマイトレーヤだね。
マイトレーヤというのはみなさんの知っている言葉でいうと、弥勒菩薩。このマイトレーヤとお釈迦様っていうのは、遥かな過去世から修行者仲間だった。一説によるとマイトレーヤの方が師匠だったという話もあるんだけど、まあそれはいいとして。修行者仲間だったんだけど、これは仏典の物語なんだけどね、プシュヤっていう偉大なる世尊がいて――この人は世尊のなかの世尊みたいな存在なんだろうね。このプシュヤという世尊が――お釈迦様の前の世尊はカッサパという人なんです。これも仏典に出てきますが、お釈迦様もカッサパの弟子だったんだけど、カッサパという世尊が役目を終えて、さあ次の世尊――この地球を含む十億宇宙の次の担当世尊は誰にしようかと考えた。そこで候補に挙がったのが、マイトレーヤとお釈迦様だった。マイトレーヤとお釈迦様を二人比べた場合、個人的ステージとしてはマイトレーヤの方が上だった。でも弟子たちを見たら、お釈迦様というのはマイトレーヤよりまだレベルが低かったんだけど、弟子のレベルが安定して全体的に優れていた。でもマイトレーヤは、個人的にはお釈迦様より優れていたんだけど、弟子たちがもう、ろくでもない弟子が集まっていた。そこでプシュヤが考えたのは、一人を世尊まで引き上げるのは簡単だと。でも多くの弟子たちを引き上げるのは難しいと。お釈迦様一人を引き上げてしまえば、弟子たちは一気にすごいステージに行くだろうが、マイトレーヤを今引き上げても、弟子たちはろくでもないから駄目だと言って(笑)、まずお釈迦様を引き上げて、お釈迦様が最初に地球を含むこの宇宙の担当になったっていうふうにいわれてるね。
そのお釈迦様の後に引き継ぐのが弥勒菩薩――マイトレーヤといわれています。このマイトレーヤがこのわれわれがいる宇宙を最終的に消滅させる――消滅というのはつまり全員を解脱させる――担当になっているといわれているね。この辺は壮大な話なんで、ちょっとぴんと来ないかもしれないけども。
はい、ちょっと広がってしまいましたが、そのお釈迦様の称号の一つがこの「スガタ」ね。だからここでいっているのは、お釈迦様が説かれた教えに基づいて、わたしがほんの少しばかり教えをまとめましたと。それをお聞きくださいというところですね。