解説・アーナンダマイー・マーの教え(6)「奉仕の精神」
◎奉仕の精神
【本文】
五.あなたの両親、子供、夫、妻、隣人などが、いつか「彼」との絆を確立することを願いつつ、彼らに対する奉仕の精神を保ち続けてください。
これは家族、あるいは友達とかね、自分の知り合いとかが、まだ修行もしてない、あるいは神とか仏陀とかそういうものに対して心を開いてないっていう場合ね。例えば会社の同僚とかもそうだけど、「ああ、いつか彼らが神に目覚めて欲しい」っていう思いを常に持ちながら――もちろん条件的にね、自分がその人をそういった道に導けるような環境にあるんだったら、もちろん導かなきゃいけない。でも、それはなかなか難しい場合もあるよね。その場合は、常にそれを願いながら奉仕の精神――奉仕の精神っていうのは、これもバクティ・ヨーガの考えなわけだけど、至高なる存在っていうのはすべてのものに遍在していると。
つまりこれはナーグ・マハーシャヤとかもそういう考えだったわけだけど。ナーグ・マハーシャヤって、ナーグ・マハーシャヤの家にいろんな人が訪ねてくるわけだけれど、そうするとすごい礼拝したりして、崇めまつって――本当にね、隣のおじさんとかが来ても、「おお、神よ!」って言って、すごいごちそうを出したりする。自分はあんまり食べないんだけど、お客さんにはすごいごちそうする。で、自分が本当に病気で倒れ込んでても、お客さんが来ると立ち上がってごちそうする。
あるいは、あるときは信者が苦労して家にやってきたと。で、そしたらナーグは――まあ、そのときはすごい雨季で家から一歩も出られない状況だったんだけど、食事を作るための燃料がないと。火を燃やす薪がないと。でも、自分を慕って来てくれた、神の化身であるこのお客様のために――と言って、自分の家の棟木を切り出した(笑)。家のね、家の柱を切り出した。で、柱を切って、それで料理をして、出したと(笑)。
もちろんね、ここはみなさん分かると思うけども、この見方っていうのは二重の見方があります。二重の見方っていうのは、絶対的真理と相対的真理。相対的真理においては、現実的な関係性はもちろんあります。例えば、この人はわたしのお母さん。わたしの子供。わたしの友人。友人であって、まだ修行もしていない人なんですよ――これは、現象的な相対的な関係ね。で、絶対的な真理っていうのは――でも、実はこの修行全然してなくて遊んでばっかりいる煩悩まみれで怒りっぽいこの友達は、実は神の化身なんですよと。
ラーマクリシュナもそういう見方をしていた。で、ラーマクリシュナのエピソードもいろいろおもしろいのがあるわけだけど、例えばあるとき、ラーマクリシュナが街を馬車で歩いてたら、売春婦が立っていた。売春婦っていうのは普通は、特にヒンドゥー教みたいな潔癖的な世界では、最も否定される、もうけがらわしいって見られる存在だよね。で、ラーマクリシュナがその売春婦を一目見たときに大笑いしだした。「わっはっはっは!」と。で、何て言ったかっていうと、「マーよ」と。マーっていうのは彼にとっての至高なる神だね。「マーよ」と。「今日は本当にうまく化けましたね」と(笑)。ね。「今日は売春婦に化けたんですね」と。「本当にあなたはうまい」と(笑)。つまり彼にとっては、売春婦さえも神の化身だったんだね。
まあ、おそらくそれはラーマクリシュナは、自分を鼓舞するために言ったんじゃなくて、本当に見えてたんでしょう(笑)。本当にその売春婦の中に――つまり、その人の中にも当然あるから、その神性はね。その部分を見てたんだと思う。
で、われわれはまだそこまでの智慧の目はない。われわれに智慧の目が本当にあればそれが見えるんだけど、でもそれはまだないので――もう一回言うけども――現実的な関係性と同時に、「でもこの人は神の現われなんだよ」っていう思いを常に持ってるんだね。
今何でこういうこと言っているかというと、どっちかに偏っちゃ駄目なんです。例えば、今日そういう教えを聞いたからといって、これも何回か言ってるけど、例えば、インチキ営業マンがやってきて、「この機械を使うと超美人になるよ」とか言われて、百万くらいの機械を売りつけられそうになると。で、そのときに、「ああ、神が言ってくれてる」と思って百万で買ちゃったら、それはただの馬鹿だよね(笑)。そういうことを言ってるんじゃない(笑)。つまり、現実的な話としては、「あ、これは詐欺である」と。「わたしはこんなことに貴重なお金は使ってはいけない」と。「それはこの人のためにもならない」――これは現実的な見方。でも同時に、「このようにしてわたしを騙そうとしてくれるこの人も神である」と。「神がわたしの無智さ加減を今、試そうとしてらっしゃるんだな」と。「いや、神よ。その手には乗りませんよ」と(笑)。そういうような発想が必要なんだね。だから、その辺の二重の意識っていうのを間違えないようにしなきゃいけない。
でも、基本的にはみんな神であると。例えば、ここにどうしようもない人がいる。で、自分がね、なんとかその人を叱咤激励して修行させようとする。「修行しようよ」と。「そんな状態じゃ駄目だよ」と。この関係っていうのは、明らかに自分が上で――つまり自分が先を行く者で、後輩を指導してるわけだけれど、このときも心の中では、「いや、神はこんな愚か者のフリをして、わたしの徳を積まさせようとしてくださっている」と。「わたしの菩薩としてのスキルをアップさせようとしてくださっている」と。「本当に神はありがたい」という気持ちで、全力で成りきるんだね。そのような二重の意識っていうのを常に持たなきゃいけない。そういう意味でとらえてください、ここのところはね。
(R)先生、そういう神っていうのを、神々っていうふうに考えちゃ駄目ですか? 「神々が、守護神とかが今やってるんだな」みたいな認識をするというか……
それでもいいけどね。それはその――つまり、何も考えられない人を低レベルの認識だと考えたら、神々って考えるのは中レベルの認識だと(笑)。
(R)そうですか(笑)。
でも、その神々も含めて至高者だって考えるのが最高だね。だからそれはどっちでもいい。
そういうこと言い出すと複雑になるんですよ。例えばね、神々っていった場合、守護神だと。守護神っていうのは、まだ完全ではない。完全ではないが、いろいろな形でわれわれを導いてくれてる。でも、この守護神が失敗することもある。あるいは、よく経典には、守護神が嫉妬して修行者の邪魔をすることがありますよって言われてる。「え? 何邪魔してんの?」ってなるじゃないですか。で、その守護神が邪魔してるのも神なんだよっていう(笑)、至高者なんだよっていう(笑)、さらにもう一つ加わるから、ちょっとややっこしくなってくる(笑)。
だからまあ守護神でもいいんだけど、もともとすべて至高者なんだよってやった方がシンプルかもしれないね。
「じゃあ本当はどうなの?」っていうと、全部本当なんです。それは真実のレベルが違う。これは前にも言ったけど、例えば、「これ何?」っていった場合ね。「コップ」っていうのか、「ガラス」っていうのか、「原子」っていうのか、全部正解なんだけど、それを捉える――例えば、「マーヤー」って言うかもかしないよ(笑)、これをね。「それはマーヤーです」と(笑)。「空だ」とか言う人もいるかもしれない(笑)。全部当たってるんだけど、捉え方のレベルが違うよね。ある人はもっと詩的に言う人がいるかもしれない。「それは、美しく光り輝く透明なる現象である」と言うかもしれない(笑)。それは全部当たってるんだけど(笑)、角度とかレベルが違うだけなんだね。
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