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解説「菩薩の生き方」第十回(4)

 はい。そしてそのあとに書いてあるのが、ということはつまり悪業も同じであると。ね。まあ、これは皆さんちょっと悪業を甘く見ていて、現実的にやらなければ心の中で邪悪な思いを持ってもいいっていう感覚を持ってる人もいるかもしれないけども、この悪業こそやっぱり気を付けなきゃいけない。つまり、さっきも言ったように、心がこもっていれば供養は大変な効果を生む。しかし心がこもっていなければ、それは心の表面を通り過ぎたようなものであって、遊びのようなものであんまり効果がないですよと。でも悪業に関してはさ、心こもってるよね。つまり、わざわざ心がこもってない悪業を心に思うっていうことは普通はあんまりないから。つまり心に思ってしまうっていうことは、やっぱり心がこもってるんです。もともと心の奥にあるものが出てくる。で、もちろんそれをね、アクションしない、あるいは言葉にしない、これ大事ですよ、第一段階として。第一段階として、グーッと相手に対する怒りがわいてきたと。あるいは相手に対する邪悪な感情がわいてきて、でもそこで行動に移しちゃったらもう駄目ですよね。あるいは言葉に出してひどいこと言ったら、それはもう最悪であると。だからここで止めるのはオッケー。
 だから最悪――これも何度もここでは言ってるけどさ、よく現代的なスピリチュアルとか心理学的な話では、「いや、それは出しちゃった方がいいんだ」っていう人がいるけど、それは全く間違いです。もちろん出せばそのときはすっきりするよ。それはそうでしょう(笑)。それは心はある程度安定するけど、それでいいのかっていう問題がある。それは新たなカルマを積んじゃうし、いったんすっきりしたように見えても実際には心の奥のデータは増えています。つまり、より怒りっぽくなっています。ですから心にストレスがたまってもいいから、アクションしない、あるいは悪い言葉を口に発しない。つまりシャーンティデーヴァの言い方をすると、木材になれっていうやつだね。木材になれと。
 いつも言うけど、「木材になれ」って、すごい素晴らしい教えですよね。――わたしはさ、もともと家が家具屋だったので、よく材木屋とかとも取引があったわけだけど(笑)。よく材木が並んでるヴィジョンっていうか、風景を子供のころからよく覚えてるんだけど。
 前にも言ったけど、昔、カイラスの初期のころ、Cさんという中国人の、頑張ってた、その人チベットに出家しちゃったんだけど、頑張ってた修行者がいて、彼もここではじめて『入菩提行論』を読んで大変感動して、で、一緒によく歩いてたり、まあ一緒にいたりすると、いきなり彼が、「木材!」って言いだす(笑)。

(一同笑)

 「あー! 今なんか変なこと思ったんだね」と(笑)。つまり会話とかしてて、多分なんか煩悩が出たんだろうね。あるいはなんかちょっと悪い気持ちが出たりしたんだろうね。いきなり「木材!」とか言いだして。もうバレバレっていうか(笑)。
 だからまあ、「木材!」って言う必要はないんだけど、心の中で木材をイメージして――つまり木材って分かるよね。つまり悪いものを表現しちゃうくらいだったら、材木のように――もちろん岩とかでもいいよ。岩とか材木のように、もう完全にストップさせろと。表現をね。
 だからこれは第一段階としてオッケー。しかしそこで止まってもいけない。つまり、それでいいと思ってたらどんどん心のけがれが増加するから。カルマは積まないけども、心のカルマっていうかな、心のけがれは増大しちゃうから。だから心においてもできるだけそのような悪しきイメージ、あるいは悪しき言葉、あるいは悪しき思いを持たないようにすると。
 例えば相手に対して心の中で「どっか行ってしまえ」とか「死んでしまえ」とか「こうなったらいいんだ」とか、そういうことを真剣に考える人はここにはいないだろうけど、でもフッとわくことがあるかもしれない。フッと、「あんなやつ、こうなってしまえ」と。
 そういえば、ちょっと変わった話ですけども、ある、ちょっとだけわたしが教えてた、変わった女性の生徒さんがいてね。で、その彼女はなんかもともと魔術をやってたっていうんだね。魔術をやってて、で、ちょっと怒りが強いっていうか。で、よく、なんか嫌なことがあったときとかに、「あいつ転んでしまえ」とか「ぶつかってしまえ」とか思っちゃうんだって。そうすると叶うんだって(笑)。本当にその人が転んだりとか、なんかどっかにぶつかったりするらしいんだね。で、そうやってカルマを積んでたんだけど。で、その人とちょっとわたしが話す機会があって、まあ、ちょっとわたしが厳しく言ったみたいなんだね。わたしはあんまり覚えてないんだけど、ちょっと厳しく言ったみたいで、それによってその人はちょっと心を害したらしくて。で、そのあとわたしが後ろを向いて去ろうとしたときに、また「転べ!」って思っちゃったんだって。そしたらその子が転んじゃったらしくて、「先生はすごい」って(笑)。

(一同笑)

 まあ、これはその子がちょっと変わった子だったから(笑)、あまり一般論的な話じゃないけども、でもそういう思いってわきがちなんだね。で、この子はほんとに魔術の力があったかどうかは分かんないけど、魔術って心にネガティブなものとかをね、グーッと潜在化させたりするから、確かに非常にそういう魔術的集中のトレーニングとかやってると、逆に叶っちゃって怖いところがあるんだけど。で、叶わなかったとしても、もう一回言うとね、叶ったと同じくらいの悪業になります。つまり心のけがれになるっていうか。それはさっきの供養の理論と同じ。マンダラ供養が、心がこもってれば実際に布施した以上の徳を積めると同じように、心において皆さんが思った邪悪な思考が、それが心がこもってれば実際にそれをした以上の――だって、怖いよね、それはね。例えば、「死んでしまえ」と思ったとするよ。それが一瞬だったとしても、「死んでしまえ」っていうことをものすごく心を込めて思っちゃったとしたら、それは実際に誰かを殺したくらいの、あるいはそれ以上の悪業になるっていうわけだから、大変な怖いことだね。
 だからわたしも前からよくエッセイ集とかでも、「心がすべてだ」と、「一瞬でも心をけがしてはいけない」って書いてるけど、まさにそれは真実なんだね。心がすべてっていうのは、ほんとに心がすべてなんです。心がすべて、あるいはすべては心といってもいい。全部心なんです。ほんとにもう、これは、これ以上の言葉はない。すべては心です。よって、皆さんが心をけがすっていうことは、皆さんの首を絞める以外の何ものでもない。だからこの部分もとても、なんていうかな、理論的にしっかり考えて、自分のエゴを追い込んであげたらいいね。
 こういったね、教え――まあ例えばバクティとかではあまり理論を使わずに心の純粋性でグワーッていくわけだけど、こういった仏教的なものっていうのは逆に理論をうまく使って、理論で心を追い込むんですね。これはこれで大事です。つまり、おまえ分かるかと。邪悪な思考っていうのはもう不利益しかないと。いや不利益どころか、もう破滅の道であると。こういうことをエゴに教え込ませるんだね。はい。だからここもとても重要なところですね。
 はい。で、それから、しかし――ちょっと付け加えとして、供養の瞑想は心がこもってないと意味がない。とはいえ、まだそのような供養の気持ちがあまりない人であっても、こういったマンダラ供養や、あるいはイメージにおける供養の瞑想はするべきだと。なぜならば逆に、心がこもってない段階でやっても、そのときの効果はないけども、逆にそのイメージの繰り返しが、その人の供養の気持ちを開発することになる。あるいはイメージだけであっても、仏陀とかグルとか神々との縁をつけることになる。ですから逆にそれは、いや、わたしは供養の気持ちがないからやってもしょうがない、じゃなくて、もう――ちょっと極端に言えば、いやいやでも、あるいはかたちだけでも供養の瞑想を繰り返すことで、だんだんだんだん開発されてきます。
 ですから皆さん、いつも言ってるように、かたちを使った、かたちのあるね、しっかりとしたマンダラ供養だけじゃなくて、日々いろんなものを供養する瞑想をすると。ね。日々歩いてたら、日々素晴らしいもの、例えばこれから春になってきれいな花がいっぱい咲いてきたら、それを心の中で、「ああ、神よ、仏陀よ、グルよ」っていう感じで供養するイメージをする。あるいはおいしい食事を食べるときも、その食べ物のおいしさを供養すると。あるいはそうだな、これはチベットとかでよくそういう経典でいろいろ書かれてるんですが、例えば――これはもちろん皆さん、ある程度習慣になってる人もいるだろうけど、そうですね、例えば何か新しいものを買ったら当然それはまず神に供養してから使うと。あるいは、そうだな、例えば味覚だけではなくて、いろんなかたちでわれわれの感覚が、清々しい、気持ちいいときとか、その気持ちいい感覚を供養するとか。あるいは人から称賛されたとか、あるいはある程度の地位を得たとか、そういうときにそれを供養するとか。とにかくこの世における視覚的、あるいは概念的、あるいは物理的、あらゆる意味での良きものを見るたびに、あるいは経験するたびに、供物と考えて供養すると。この気持ちがとても大事ですね。
 で、これを例えば日々――これはさ、つまり、いろいろ活動しながらでもできるからね。普通に例えば人と話したり、いろんな仕事なり、まあ、あるいは歩いたり、いろんな活動をしながらでも心の中ですべて供養していくと。これがとても大事ですね。で、これは、もう一回言うと、そこにほんとに心がこもってれば、それそのものが徳になるわけだけど、心がこもってなかったとしても、その繰り返しによってトレーニングになります。だんだんだんだんそれが自分の中の本当の意味での供養の心を開発していくことになる。だからこれはとてもいい修行ですね。

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