解説「菩薩の生き方」第十四回(8)

はい。そして、いよいよわれわれは菩提心を起こすことができましたと。「かように賢者は、清らかな喜びに満ちた心で菩提心を発して」云々って書いてあるけども、これはいつも言ってる随喜の話にもつながるけども、まあ、ちょっとストレートに単純に言うけどもね、皆さんが菩提心を起こすことができたと。まあその前に、この菩薩、あるいは大乗仏教のこの道に出合えたこと、これ自体が非常に素晴らしい。しかし、何度も言ってるけど、カルマがまだ熟してないと、素晴らしさにも気付けません。
何度も言ってるから端折るけどね、わたしもいろんな人に出会ってきたけども、わかんない人は全くわかりません。「素晴らしいけど大変だなあ」じゃなくて、「え?」って感じ(笑)。「みんなのための修行ってどういうこと?」と。ね。「え? 回向って何?」「修行は自分のためにするんじゃないんですか?」と。「修行っていうのは自分が輪廻から救われるためにするんじゃないんですか?」と。ね。全然その菩提心っていうのが理解できないと。「いや、わたしは、みんなが、この宇宙の衆生全員が解脱するまでは、輪廻を出ない。」「え? 意味わかりません」と(笑)。こういう人もいるんだね。
そうじゃなくて、本音は苦しいけども、「素晴らしいな」と。「やはり菩薩っていうのは素晴らしい」と思える人っていうのは、相当もう縁がある。
そして実際に皆さんが、まだ実際は心が全然駄目だったとしても、理想として、「菩薩になろう」と。――もう何度も言うけども、もう皆さん逃げられませんから。逃げられないっていうか、チベットとかではさ、正式にやるんだけどね。正式になんか儀式とかやって、菩提心の発願を唱えて、で、グルが「さあ、今日からおまえは」みたいに言ったりしてやるわけだけど、そういうことはカイラスではやらない。やらないけども、皆さんがこういう『菩薩の生き方』とか読んじゃって、「いいなあ、おれも菩薩になりたいな」――これ、菩提心です(笑)。
(一同笑)
発菩提心(笑)。もう終わりです(笑)。もうその道に入っちゃいました。うん。一回も思ってない人がいたらそれはまだかもしれないけど、ちょっとでも「なりたいな」「よし、菩薩になろう。」「わたしもこの道を行きたい」って思ったら、そこからもうスタートです。
で、繰り返すけど、それはとっても素晴らしいことなんです。最高に素晴らしい。ここにも書いてあるけども、「これによってついに、自分の人生は、意味のあるものと相成ったのです」と。ね。本文にもありますけども、「今日、私の生は実を結び、人間としての存在は、得られがいのあるものとなった」。ね。この気持ちね。もちろん、もう一方の柱としてバクティっていうのがあるわけだけど、ちょっとそれは置いといて、菩提心っていう意味で言うならば、「やっとこの菩提心というものに出合って、わたしが生まれてきた甲斐があった」と。生まれてきたっていうよりは、生まれなきゃいけないんだけど、この存在、魂の存在としての意味がやっとわかったと。わかったっていうか、意味がやっとできたと。この喜びね。
皆さんもそうかもしれないけども、わたしの場合も小さいころからやっぱり人生の意味をすごく探してたね。「なんで生まれてきたんだろう?」と。「なんで生きなきゃいけないんだろう?」と。なんかそこまでこの世に価値があると思えないと。苦しみがいっぱいあるし、すべてはどんどん――つまり、これを学ぶ前から、子供のころからね、わたしの場合、無常観があって。「全部終わるじゃん」と。ね。「それになんの意味があるんだろう?」とか、いろいろ考えていた。あるいは、社会でいわれてるようないろんな成功とかそういうものも、なんかそこまで、わたしが生まれてきたのがそのためだって言われたら――前から言ってるけど、もう一回言うけども、わたし小さいころ、ある時期ね、小学生のころとか、プロ野球選手になりたいと思ってて。そのころはプロ野球といえばジャイアンツだから、「ジャイアンツのエースかまたは四番バッターになってヒーローになる」と。そういう一つの夢――夢っていうかな、子供ながらの思いがあったわけだけど。でもそれ、リアルに考えると、そのすべてが成功したパターンを考えてね、完全に例えば、ジャイアンツのエースまたは四番バッターとして、そしてもう長嶋みたいな国民的英雄になり、そしてまあ芸能人とかと結婚して(笑)、みんなのヒーローとなって、そして野球でほんとにいろんな記録を作って、そこまで成功したとして――「え? おれの人生、ジャイアンツのために生まれてきたの?」って考えると、そんなわけねえだろと(笑)。ジャイアンツのエースになるために生を受けた――なんかマンガとしてはかっこいいけどさ、なんかちゃち過ぎるぞ、逆に。逆にちゃち過ぎない? と。「そんなもののためにこの神秘の生っていうのがあるの? そんなわけないよね?」と。「なんかあるでしょ」という気持ちがあったんだね。
だからわたしは、小さいころからいろいろ、もちろん子供ながらの夢はあったけども、なんかちょっと冷めてしまうと。なんかあるでしょと。ないとしたら、結構この世は、ちょっとニヒリズム的な、意味のない世界なのかなと。でもそうじゃないよなって気持ちがあった。で、そしてわたしの場合はまずヨーガに出合い、そして菩薩道に出合い、そしてバクティに出合いっていうかたちで、そこでまあ、大変な歓喜があったわけだね。「これか!」と。「やっぱりあるじゃん!」と。「あるじゃん!」とね(笑)。「もう、出し惜しみして!」みたいな感じ(笑)。
(一同笑)
でもこれは出合えた人の喜びであって、もしかすると出合えなかったかもしれないと考えたら、これはもう大変なことですよね。皆さんは修行とか、あるいはこの菩提心の教え、あるいはバクティの教えに出合えなかったかもしれない。それを自分でシュミレートしてみたら、この出合えたっていうことが、あるいは自分もそれを、その気持ちを起こせたっていうことが、なんと素晴らしいことかと。これによってやっとわたしの人生は意味を持つものとなったんだと。こういう、シャーンティデーヴァの、なんていうかな、感動っていうか感激の心ね。これもまた自分に当てはめて、しっかりと、日々ね、何度も何度も繰り返して考え続けなきゃいけない。
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