解説「菩薩の生き方」第十四回(7)

はい、そして、「往昔のスガタが菩提心を受持したように」っていうところね。「そして菩薩の実践規律を定めの通りに遵守したように」――つまりこれはもう、希望なわけですね。前にSさんの質問でもあったけども、これがちょっと――いわゆるアヴァターラ――アヴァターラってさ、もう、なんていうかな、完全に最初から敵わない(笑)。最初から完成者だから、アヴァターラはね。アヴァターラっていうのはもう最初から完成していて、ラーマとかクリシュナみたいに、なんていうかな、わざとわれわれのレベルに合わせてリーラーを演じてくださると。これがアヴァターラの考え方。でもそうじゃなくて、仏教におけるブッダっていうのは――もちろん仏教においてもいろいろあるわけだけど、例えばアーディブッダといって、原初のブッダとかがいるわけだけど。そうじゃなくてお釈迦様みたいな存在っていうのは、あるいはいろんな聖典に出てくる菩薩やブッダ方っていうのは、われわれに大いなる希望を与えてくれるわけだね。なぜかっていうと、みんな最初はちょっと駄目だったと。ね。最初は全然駄目な存在であったと。
お釈迦様も過去世物語がいっぱいあるわけだけど、過去世物語で――まあ、いろんな説があるわけですけどね、チベットとかでいわれてる一つの説としては、お釈迦様はもちろん最初のときは全然エゴ丸出しの、もう全然煩悩丸出しの――ちょっと考えにくいけどね(笑)――お釈迦様がエゴ丸出し煩悩丸出しで、怒りに満ちて憎しみに満ちた存在であったことがあったと。だから当然そのカルマによって地獄に落ちたと。ね。地獄に救いに行ったんじゃないんですよ。お釈迦様も悪業ばっかり積んでて地獄に落ちたこともあると。まあ、それは当然です。そういう時代もあったと。でもその地獄に落ちて苦しんでるときに、何かの、おそらく神の祝福、ブッダの祝福によって、地獄でね、野球部のローラーみたいな鉄のローラーがあって、で、それが燃え立ってると。その燃える鉄のローラーを、地獄の獄卒に言われてね、引く地獄ってあるんだね。で、そこでお釈迦様ともう一人の地獄の住人がセットで、そのローラーを、炎に包まれながら苦しみながら引く地獄にいたんだけど、お釈迦様がふと思って。「もう苦しくてたまらない」と。「でも二人でも苦しいなら、一人の方がましだ」って考えて、地獄の獄卒にお願いしたっていうんだね。「もうわたし一人でやりますから」と。「彼を休ませてください」と。で、地獄の住人はもちろん、「何言ってるんだ!」と。「駄目だー!」って鞭で打つわけだけど、でもこのときに初めてお釈迦様――おそらくもちろん縁があって、あるいは祝福によって湧いた、菩提心のかけらみたいなもの――「彼が苦しむ分だけわたしが今引き受けます」っていう気持ちね。これがスタートだったっていわれてる。ここからお釈迦様の菩薩の道が始まり、そこから少しずつそれが――もちろんそのあとも、書かれてないけども、そのあともいろいろあったと思うよ。そこでパッと湧いたけども、みんなみたいにすぐしぼんで(笑)、またエゴだらけの人生もあったかもしれない。しかしそれがだんだん育っていって、何度も生まれ変わって、だんだんだんだん――
お釈迦様の場合、過去世物語見るとさ、例えば一つのことを一生かけて徹底してやってるんだね。例えば布施の生だったら、もうその生は布施の徹底。もう一生懸けて布施を完成させると。もちろんほかの修行もやってたかもしれないけども、テーマは布施と。つまり、「この一生で解脱する」とか考えていない。まずは布施を完成させると。で、布施を完成させるために、あらゆる状況を使って布施をしまくり、で、そうすると祝福によっていろんなことがやって来るわけだね。布施をさせないように魔の――つまりこの意味でも魔は祝福なんだけどね。その菩薩がより布施を完成させるために、魔が、厳しいコーチみたいな感じでやって来るわけだね(笑)。で、魔が邪魔をしてきて、それに対してまた、それでも布施をする、ということによって、乗り越えていくと。
まあ一生じゃない、実際は。お釈迦様が布施に人生を捧げた生っていうのは何生もある。ある生においては全財産を布施し、ある生においては自分の目玉を布施し、ある生においてはもちろん自分の命を布施し、ある生においては自分の奥さんや子供を布施し、ってかたちでやっていくんだね。
で、ある生においては今度は忍辱であると。徹底的に耐える人生であると。これに一生を捧げると。これは有名な話としてあるけども、王様に自分の腕を切られ、足を切られ、鼻を切られ、耳を切られると。何をされても心を動かさないと。こういう修行を徹底的にやると。そういう感じで、一生一生、一つのテーマを達成していくと。
ちょっと話がずれるけど、その意味でも皆さんはまだまだ心の、修行者としてのスケールが小さいんだね。ちょっと修行を進めたと。それはもちろん随喜して素晴らしいことですけど、しかしそれでなんか結構修行したような気持ちになってると。で、それでなんか、まだいろんな自分の意にそぐわないことが起きると怒ってしまう。「あれ、なんでわたしはこんな頑張ってるのに、なんで修行が進まないんだ?」って思ってしまう。だからこういう、ちょっと修行者としてのスケールが小さ過ぎる。一生懸けて一つのことを達成させると。あるいはもちろん、密教とかバクティの場合は一気に進む力もあるから、それはそれで素晴らしいわけだけど、しかし自分の心持ちとしては、一生懸けて一つのことを達成するぐらいの気持ちで人生を賭けると。で、もちろんまた生まれ変わって次の課題に進むと。これくらいの気持ちね。
そして、お釈迦様にしろ、偉大な菩薩方やブッダ方にしろ、ずーっとそれをやってきたんだと。最初は本当に駄目なときもいっぱいあったと。もちろんお釈迦様も――われわれが知ってるお釈迦様、ゴータマ・シッダールタっていうのは、完成の生として現われたから、お釈迦様の場合はもう生まれたときからほとんど完成してたわけだけど、いろんな聖者の物語を見ると、そうじゃない場合もいろいろありますよね。身近に感じられる、例えばミラレーパとかそうですけども。
ミラレーパとかはすごく、希望になるところがあるよね。いつも言うけど、ミラレーパは小さいころはまあ無智によって、あるいは情によって、自分たちを苦しめた親戚三十数人を殺しちゃったと。ね。こんな悪業積んでる人、あんまりいないよね。皆さんの中にあんまりいないわけだけど。しかし燃えるような思いによって、その悪業を浄化するためのグルの試練に耐え続けたと。そして本当に健気な態度で、何をされても従い続けたとかね。まあ、でもミラレーパももちろんそこまでの帰依と奉仕の実践ができるだけのステージにあったわけだけど、でもそれもさらにもっと過去を探るとね、当然ミラレーパにしろお釈迦様にしろ、もっとわがままで、意志が弱く(笑)――ミラレーパっていうのは一つの、帰依と奉仕と意志の強さ、忍辱とかの象徴って感じだけども、当然、全部無かったときもあるよ。うん。心弱いミラレーパ(笑)。意志弱いミラレーパ(笑)。苦しみに耐えられないミラレーパ。帰依の「帰」の字もないミラレーパ。その時代もあった。当然ね。それは何生前かわからないけども。何生前かにグルになんかやられて――つまりミラレーパはほんとに何年間も一人で重い重労働を課せられて、それでもグルに信を失わずに奉仕し続けたわけだけど。でも五百生ぐらい前のミラレーパは、グルになんかやられて「はい、わかりました」――十五分ぐらいで「もう嫌!」(笑)。「グルは教えを与えるって言ったのに! ただ働きしかさせないなんて!」――十五分(笑)。こういう時代も当然あったんですよ。そこから上っていったんだよ。で、これがわれわれにとって希望になるんだね。みんなそうだったと。
皆さんは卑屈な心が強すぎるから、「どうせおれは」っていう気持ちになっちゃいそうだけど、みんなそうだった。お釈迦様もミラレーパも、マルパも、ナーローパも、ね、みんな過去世においてはそうだったと。その希望ね。これを胸に持たなきゃいけない。
そして、わたしもその道を行くんだと。その道を行くっていうことは当然、甘えてはいられない。つまりみんな――もちろんみんなそうだったっていうのは前提ですけど、そうだったけどその段階から努力して克服してきたんだと。だからわたしも同じ道を行くんだと。わたしもお釈迦様やミラレーパその他聖者方がやってきたように、少しずつ、じっくりと、しっかりと自分の欠点を乗り越えて、そして理想とされるものを自分のものにしていくんだと。この気持ちね。
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