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解説「菩薩の生き方」第十四回(6)

【本文】

 よるべなき者のよるべ、旅行者の隊長と私はなりたい。彼岸にわたろうと願う人々の船、堤防、橋となりたい。

 すべての生類に対して、灯火を求める者のためには灯火となり、寝台を求める者のためには寝台となり、召使を求める者のためには召使となりたい。

 衆生のために、如意珠、幸福の水瓶、成就のマントラ、大いなる医薬、如意樹、如意牛と私はなりたい。

 あたかも全空間に住する無量の衆生に、地・水・火・風の元素が、様々に役立つように、――一切が(輪廻の苦から解放されて)静安とならない間は、空間に住するすべての衆生が私を享受しうるようになりたい。

 往昔(おうせき)のスガタが菩提心を受持したように、そして菩薩の実践規律を定めの通りに遵守(じゅんしゅ)したように、そのように、世界の善福のために、私は菩提心を起こそう。そしてそのように、順序に従って、実践規律を実践しよう。

 かように賢者は、清らかな喜びに満ちた心で菩提心を発して、さらに後に続く心を養い育てるために、次のように喜びの心を起こすべきである。

 ――「今日、私の生は実を結び、人間としての存在は、得られがいのあるものとなった。今日、私はブッダの家に生まれ、今や私はブッダの子である」と。
 そこで今や、己の家柄にふさわしい行いをなす人たちのなす業を、私はしなければならぬ。汚れのないこの家に、汚点が生じないように。

【解説】

 この部分はまず前からの続きで、シャーンティデーヴァの心から生じる慈悲の思いの表現が続いていますね。

 ところでこの辺の表現のみならず、この入菩提行論全体を通じてもいえることですが、ナーガールジュナ(龍樹)のラトナーヴァリーなどに見られる菩薩の心の表現が、そのベースになっているように思いますね。たとえば、ラトナーヴァリーにはこうあります。

 「地・水・火・風・薬草及び樹木を用いるように、常に衆生がすべて欲するままに妨げなく(我を)用いる者となりますように。」

 これと入菩提行論の

「あたかも全空間に住する無量の衆生に、地・水・火・風の元素が、様々に役立つように、――一切が(輪廻の苦から解放されて)静安とならない間は、空間に住するすべての衆生が私を享受しうるようになりたい。」

は、ほとんど同じ表現ですね。

 地・水・火・風というのは、この世の一切を構成する元素です。ここに空を加えて五大元素とすることもあります。すべての衆生は、これらの元素で作られているこの世の様々なものを使って生きていたり、喜びを味わったりしているわけですが、私という存在も同様に、皆、好きなように使ってくれと、私の体や存在を使って、みんなが幸せになるなら、好きなように何なりと使ってくれと――前の部分からつながる祈りを続けているわけですね。

 そして、今、ブッダとなっている方々も、その昔、まず菩提心を起こし、そして菩薩の修行を順々に修めていって、ブッダとなったわけですが、この私も同様に、今こそ菩提心を起こし、菩薩の実践規律を順々に修めていこうという、強い発願がここで為されています。

 さあ、いよいよ我々は、菩提心を起こすことができました。それはつまり、「私は衆生を救うためにブッダとなろう」という決意であり誓いです。
 エゴのために生きるのではなく、なんとなくぼーっとして生きるのではなく、菩提心という最高の誓いを心に起こすことができたのです。これによってついに、自分の人生は、意味のあるものと相成ったのです。その喜びの心が感じられます。

 ――そして菩提心を起こして菩薩となったということは、菩薩は「ブッダの子」と呼ばれますので、昨日までとは違い、今日から私は、「ブッダの家」に属する「ブッダの子」として生まれ変わったのです。
 ブッダの家系の一員に、末席といえども名を連ねたということは、大いなる責任が生じたということでもあります。この汚れのないブッダの家系に、汚点が生じるようなことは、これから二度とできません。気をつけて、このブッダの家系にふさわしい者としての行いをしなければならないのです。そのように自己を鼓舞するのです。

 はい。この辺はまあ、わかりやすいところですね。前回からの続きの流れで、ひたすらまた、「わたしは衆生のようにこのようになりたい」っていうのがまず続くわけですね。そしてこの「地・水・火・風」云々っていうのは、ここに書いてあるように、まあ、つまり地・水・火・風っていうのは自然現象の中の――ちょっと復習すると、「地」っていうのはまあ、すべての固体元素の、なんていうかな、おおもとであり、そして実際に現象として現われた固体ね。つまり固体っていうのは、固体全部です。だから何っていうんじゃなくて、このわれわれが知ってるこの固い、固体全部ね。で、「水」っていうのは液体全部。だから、まあ「火」っていうのは熱エネルギー、あるいは「風」が生命エネルギーですけども、つまりわれわれはこの四大元素、または五大元素から生じるいろんなものを、別になんの気兼ねもなく使ってますよね。
 例えば、言ってみれば大地。大地に気兼ねしてないよね。大地は「痛ててて!」とか「踏むな」とか(笑)、そんなことは考えない。みんな、もうひたすら大地を普通に歩くと。あるいは大地につばを吐くかもしれない。あるいは水が流れてればそれを飲むかもしれないし、あるいは自分の体の汚いものを水で洗い落すかもしれない。つまり自分の都合で、この自然界にある地・水・火・風を勝手に、いろいろ使ってるわけですね。で、そこに衆生は何も、なんていうかな、気兼ねがないと。で、わたしのことも同じようにしてくれと。つまり気兼ねいりませんと。さっきからの続きでね。
 つまり、なんていうかな、プライドを持った、ちょっと気兼ねを感じさせるような菩提心じゃ駄目なんですよ。「わたしは菩薩ですから、さあどうぞ。わたしをいじめてください」――でもちょっとなんか、なんか発していて(笑)、みんなも「あー……」(笑)。「いや、大丈夫ですよ、菩薩ですから」みたいな。でもちょっと、ちょっとだけなんか、そういうオーラを発していて(笑)、みんな気兼ねすると。そうじゃなくて、もう気兼ねいりませんと。あるいは条件もいらないですよ。よくそういう人っていうか、スピリチュアルとかでもよく見かけるかもしれない。例えば表面上は慈愛的なことを言ってると。しかしこっちがそういうことやると、「いや、でもそれはちょっとこう考えてください。わたしはみんなに愛を与えたいと思ってるけど、それは違うでしょ」みたいに言われたら、「ちょっと面倒くさいな」と(笑)、なるかもしれない。でもそんなの全部いらないと。わたしはもうなんの条件もいらない、なんの気兼ねもいりませんと。
 まさにさっきから言ってるように、完全に苦しみ買いますと。うん。請け負いますと。請け負いますっていうよりも、自分のエゴをあげますと。ね。自分のエゴ、アイデンティティー全部あげますから――つまり、繰り返すけども、自然界の大地のように――チャイタニヤとかもよく大地とか木とか、そういったものを例えとして出すけども、踏まれても踏まれても何も文句を言わない大地のように。
 あるいは例えばわれわれが汚いものを水で洗うとき、当然それによって洗ったものはきれいになるけど、水は濁るよね。しかし水はなんの文句も言わない。「なんでおればっかりいつも濁って!」とか言わないよね。そのように、一切わたしに気兼ねいりませんと。
 もう一回言うよ。例えば、気兼ねを感じさせる菩薩っていうのは(笑)、なんていうかな、言うことはかっこいいと。「わたしはみんなのために」――でもみんなはちょっと気兼ねしてしまうと。なんていうかな、プライドを感じたりとか、ちょっとエゴの防御を感じたりして。志は素晴らしいんだけど、例えば「さあ、みんな! もうわたしに対してはなんでも言ってきてね。わたしには気兼ねしなくていいよ!」――いや、気兼ねするよと、逆に(笑)。そういうタイプっていると思う。でもそれは、悪いことじゃないよ。スタートしては。気持ちとしてはね。気持ちとしてはいいんですけども、「いや、ちょっと気兼ねいるよ」と。で、ちょっと間違うと怒っちゃうし(笑)。相手が望んでるようにいじめると受け入れるんだけど、ちょっとずれると、「それは望んでない!」とか言うと(笑)。それは駄目ですよね。
 だから、確かにそういう人もいるでしょうと。でもわたしにはなんの気兼ねもいりませんと。条件もいりませんと。ただただみんなを受け入れますと。この気持ちね。
 もちろん、繰り返すけど、それはできないよ、もちろん。それが今できたら、みんな菩薩の完成者だからね(笑)。できないけども、繰り返すけども、理念として、理念として持ち続けなきゃいけない。わたしは大地だと。わたしは水だと。自然界の、誰も気兼ねなく使ってるもののように、みんながエゴをわたしにぶつけてきてくれたらいいと。この気持ちね。これをベースに持ち続けると。

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