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解説「菩薩の生き方」第十二回(1)

2015年10月3日

解説「菩薩の生き方」第十二回

 はい、この『菩薩の生き方』は、もう皆さんおなじみですけど、もう一回言うと、これはいわゆる『入菩提行論』ね。素晴らしい仏教の論書である『入菩提行論』――新しい人もいるのでもう一回言うと、『入菩提行論』っていうのはシャーンティデーヴァっていうインド人が作った論書ですけども、ダライ・ラマ法王がチベットからインドに亡命するときに、あんまり荷物持っていけないので、唯一持っていく聖典として選んだのがこの『入菩提行論』だったともいわれています。それだけ、なんていうかな、あんまり日本では有名じゃないんだけど、分かる人には分かる、非常に、特に大乗仏教の精髄が練り込まれたような論書ですね。
 はい。で、その解説書なわけですが、カイラスのいろんな本っていうのは、わたしが例えば勉強会でね、いろんな聖典を解説した本っていうのはいっぱいあるわけですけども、この『菩薩の生き方』に関しては、まだそういう勉強会とかがあんまりなかったときなので、わたしが書き下ろしっていう感じで、丁寧に文章を書いたものだね。だから勉強会とかの方がなんていうかスピード感があっていいっていうのもあるんですけど、これはこれで非常に落ち着いてまとめられた(笑)、きれいにまとめられた本だね。だからまあ、解説の解説っていう感じになるので、今日のね、勉強会は、もうすでに解説がなされてるものの勉強会なので、より深く味わい、皆さんの心にね、浸透していくような勉強会になったらいいと思うね。
 はい。もともとこれも根本的なことを言うと、わたしは非常に、昔ね、この『入菩提行論』に出合ったときに、大変な感銘を受けて。これはすごいと。これは仏教の聖典の中でもほんとに一、二を争うほどのものであると。しかし日本ではほとんど顧みられていないと。そのころ、まあ、ここにもありますけども、金倉さんっていう人が訳した、もう絶版になってる本が――まあ、その当時も絶版になってて、で、ちょっと探さないと手に入らないようなかたちで。こんな素晴らしい本が全く顧みられていないと。で、そのあと少ししたら、だんだん、チベットのラマとかのものも含めて解説書がちょっと本として出るようになったんだね。でもそういうのを見ても、「駄目だ」と(笑)。っていうのは、この聖典のいいところが全くみんな分かってないじゃないかと。ちょっと傲慢な言い方だけども(笑)。ポイントを外してると。そこを解説してどうするんだと。そうじゃないと(笑)。この素晴らしい聖典がやっと世に出て解説されるようになったのはいいけども、みんなそのポイントが分かっていないと。「わたしが解説するしかない」(笑)――っていうかたちで書かれたのがこの『菩薩の生き方』ですね。
 で、実際これはほんとに、もちろん『入菩提行論』自体が非常に素晴らしいんだけど、ただ、人によってはね、「先生、意味分かりません」っていう人も結構いるので、それを噛み砕いたこの本は非常に素晴らしいので、ぜひ皆さんの座右の書の一つとしてほしい本ですね。

【本文】

 愛しいもの、憎らしいもののために、私はしばしば罪悪を犯した。いつかはこれらすべてのものを捨てて行かねばならぬ事実を、私は悟らなかった。

 やがては憎らしいものもなくなり、愛しいものも存在しなくなるであろう。私も存在せず、すべてのものもなくなるであろう。

 知覚せられたあらゆるものは、すべて記憶の中に去り行く。夢で知覚したもののように、一切は過ぎ去って、再び認められない。

 私がここにとどまっている間に、愛しいもの・憎らしいものの多くが、過ぎ去っていった。ただ彼らのために犯した恐ろしい罪悪だけが、私の面前に残っている。

 かように私は、自己がこの世の遇来の客であることを認識しなかった。そして無智と貪愛と嫌悪によって、多くの罪悪を犯した。

【解説】

 ここは読んだだけでも理解できると思いますが、少し解説しましょう。これはすばらしい詞章ですね。

 もし我々が、その愛しい人や物、あるいは憎らしい人や物と、永遠に一緒にいることができるなら、あるいは永遠にいなければならないならば、執着や嫌悪により、いろいろなことをやってしまうのも、少しは理解できるかもしれません。
 しかし我々はこの世の「遇来の客」なのです。つまりたまたま、旅の途中で、この世に立ち寄ったようなものです。死ねばまたまったく別の世界に、別の人間関係の下に、生まれ変わります。
 それは周りの人々も同じです。皆、たまたま私と同じ世界に立ち寄り、我々はたまたま出会ったのです。
 ミラレーパも、
「ちょっと出会ったに過ぎない友人や親戚たちといがみ合うとは、実にお笑いだ」
と言っています。

 死を考えなくても、今生だけを見ても、我々の関係は一時的なもの、ということは多々あります。ましてや数え切れない輪廻転生を視野に入れるなら、愛しい対象も憎らしい対象もすべて、本当に「ちょっと出会ったに過ぎない」のです。
 しかしその「ちょっと出会ったに過ぎない」仲間や敵のために犯した罪悪は、自分の中に確実に残っているのです。
 これはばかばかしいことだとは思いませんか?

 日本には「一期一会」というすばらしい言葉がありますね。我々は本当に一瞬、会ったのです。恋人や敵と「明日も必ず会うだろう」と考えるのは、妄想に過ぎません。たまたま会い、そしてもう二度と会えないかもしれないのです。
 それをリアルに考えるなら、その貴重な出会いを大事にし、相手を最大限尊重することはあっても、執着することはなくなります。もう二度と会えないかもしれない相手に執着しても苦しいだけですからね。あるいは、相手を憎み、悪業を犯すのもつまらないことです。もう二度と会わないかもしれない相手のために、自分が悪業をなすなんて、馬鹿馬鹿しいと思いませんか? 誰のためにもならない悪業を、わざわざなぜ背負うのでしょうか?

 そう考えると、そのような無智のために、誰のためにもならない悪業を犯してしまった過去を恥じ、また今からは決して、執着や憎しみから来る無意味な悪業をなさないぞと決意することができるでしょう。また、いろいろな人や物に対して、強い執着や憎しみを持つことのデメリットが理解できてくるでしょう。

 我々はものすごい確率で、たまたま出会っているのです。その出会いを喜び、お互いを尊重しましょう。そしてもう二度と会えないかもしれないのです。だから一切にとらわれず、風のように生きましょう。
 ただ聖なる三宝との絆だけを固く握り締めて。

 はい。これはまあ、そうですね、本文も非常に素晴らしいし、解説も非常に素晴らしい、完璧な解説だね(笑)。

(一同笑)

 だから何ももう言うことはないんだけど(笑)。
 これはほんとに素晴らしいことで、まあ、実際これは皆さんは分かってると思うんだけど、なかなか無智なので、われわれはね、失敗を犯してしまう。もう一回じゃあ、ちょっとなぞっていきますが、われわれは――これは仏教の教義、もちろんヒンドゥー教もそうですけども――でいうならば、ほんとにわれわれはカルマによって、非常に不安定なカルマの転換によって、今この瞬間があると。次の瞬間どうなるか分からない。もちろん来世なんてどうなるか分からない。で、この不安定な条件と条件の重なり合いの連続の中で、今われわれがこうして一緒にね、この世界にいて、一緒の場を共有すること自体が大変な奇跡であると。で、それは執着してる相手、あるいは逆に嫌悪してる相手、あるいはこれは現象とかもそうですけどね、執着してる現象、嫌悪してる現象、すべてそのようなカルマによってもたらされた一時的なものであると。
 これは一つの考え方として、もう一回言いますけども、ちょっと出会ったにすぎない、まさにタイミングが合ってちょっと出会った、そしてもうすぐに別れるかもれしれない、そしてもう二度と会わないかもしれない、そのような相手に対して執着を持ったり嫌悪を持ったりするのは非常にばかばかしいし、ましてやそこで執着や嫌悪によって悪業を積んでしまうなんて、こんなばかばかしいことはない。誰のためにもならない。
 で、これは一つの思考訓練ですけど、思考訓練として、この最初に書かれてあるように、もし永遠に一緒にいるならば、これはまだ分かるよっていう話なんだね。永遠ならばですよ。この友または敵が目の前にいて、なんていうかな、そういう無常の法がなくてね、「この世は無常じゃありません」と。ね(笑)。この愛する人、あるいは嫌な人とずーっといなきゃいけませんと。この状態だったら確かに、ちょっともう堪忍袋の緒が切れて怒っちゃったりとか、あるいはずーっといるんだからもう永遠の愛を育もうと思うかもしれない。でも法はそうは言っていない。まあ法はそうは言っていないっていうよりも、われわれがほんとに智性によってこの世を見たら、一切は無常であるっていうことが分かる。無常でないものは何もない。必ず愛する人とは別れが来るし、もちろん憎んでる相手とも別れが来る。あるいは現象を見てもずっと嫌なことばかりは続かないし、あるいはいいこともずっとは続かない。すべての現象は移り変わっていく。しかしその移り変わっていく中の一つの一瞬をとらえて、無駄な、積まなくてもいいような悪業を積んでしまう。これが人間の馬鹿なところなんだね。だからこれをしっかりと反省しましょうと。そして今後はそのような無駄な悪業を積まないようにしましょうと。
 もう一回言うけども、例えば嫌悪とかは一番分かりやすいね。すごく嫌なやつがいるとしてね。自分にとってですよ。自分が嫌だって思う相手がいるとして、その人のために――これは心の悪業も含めてだからね。嫌悪を出すと。あるいは実際に罵る言葉を言ってしまうと。あるいは相手に対していろんなひどいことをしてしまうと。でも無常だから、その相手との出会いも終わります。で、残ったのは悪業だけ。その悪業は自分が受けなきゃいけない。こんなバカな話ないでしょ(笑)? で、やってるのは自分だからね。うん。相手はもういなくなったと。その悪業によって別に相手もメリット受けてないし、自分もメリットを受けてない。ただこの無智によって自分が背負わなきゃいけない悪業が残っただけであると。
 で、もちろん執着も同じね。一瞬のその出会いによって、頭が執着によって無智に覆われて、で、法に反すること、あるいは悪業を積んでしまうと。で、そのときはすごく、例えばそれが人にしろ、あるいは現象にしろね、執着で頭がいっぱいになってるときは、なんていうかな、もうあまり未来のことを考えられない。あるいはあとのことを考えられずに悪業を積んでしまうと。しかしそれもほんとに一瞬ですよね。終わってしまったら、ああ、わたしはなんて馬鹿なことをしたんだっていうその悪業だけが残る。
 で、このような無智な性質を人間は持っているわけだけど、当然皆さんはもうダルマを学んでるわけだから、そして多くの修行をし、徐々にカルマを浄化する段階に入ってるわけだから、過去において、このようになしたさまざまな悪業は、今のような教えも、思考にね、取り入れて反省し、そしてこれからは二度とそのような無智な悪業を犯さないようにしようと。
 もう一回言うけども、われわれの目の前の現象っていうのは、瞬間瞬間移り変わっていく。でも、ほんとは瞬間瞬間移り変わってるんだけど、一時的に同じような現象が続いて、なんかしばらくそれが続いてるように見える。それは良い現象にしろ悪い現象にしろ、われわれはそれがまるでずっと続くかのように錯覚するわけですね。で、その錯覚によって、それが過ぎ去ったあとに後悔しなきゃいけないような悪業を積んでしまう無智なところがある。だからそれはじっとこらえて、ああ、これはまさに魔の罠であると。これが過ぎ去ったあとにわたしは後悔するであろうと。そこに残るのはただの重い罪だけである、というふうに考えて、決して、そういうね、無智による悪業を犯さないと。

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