解説「菩薩の生き方」第十三回(2)
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で、われわれは、繰り返すけど、何度も過ちを犯してきた。しかし、今この瞬間を見るならばですよ、今も皆さんはいろいろ苦しみとかあるだろうけど、でも曲りなりにも今皆さんは、ある程度ね、安定した心を持ち、ダルマに信を持ち、修行に精進できる状態にあるわけだから、これを非常にありがたく思い、そして大事にしなきゃいけないね。そして決して、当然、グルや神や仏陀との縁っていうのは決して傷つけず、離さず、そしてここから自分と自分と縁のあるものたちをこの苦界から救うために、少しでも成長できるように、その道だけを歩まなきゃいけない。そうじゃなくて一瞬の過ち、一瞬の心の揺れ、迷いによって、一瞬エゴを満足させることによって、未来に多くの、大きな道の過ち、あるいは負債を抱えてしまうようなことは絶対しないぞと。それははっきり言って、法だからしないんじゃなくて、デメリットが多過ぎると。アホかと(笑)。それを自分に言い聞かせる。デメリット多過ぎるだろと。
これはさ、ちょっと例が思いつかないけども、世俗的なことでもいっぱいあると思うよ。まあ、例えばだけどね、すごく世俗的な例になっちゃうけどさ、よくわたし不思議に思う。不思議っていうのも変ですけども、よく地位のある人がね、例えば警察の偉い人とか大学教授とかがさ、女子高生のスカートを盗撮して捕まったとかありますよね。あれ、何考えてるんだろうって思うよ。何考えてるんだろうっていうのは、性欲が出るのはしょうがないかもしれない。で、もしそういう趣味があるとしたら、それは別に責められないけども、なんていうかな、よく分かんないけどね、その盗撮の快楽と、例えば大学教授の地位とかね(笑)、天秤にかけられないじゃないですか(笑)。それは冷静に考えれば、欲望が出たとしても普通やらないと思うんだけど。でも、それも一瞬のそのエゴの無智によって、なんていうかな――今日の『入菩提行論』のテーマっていうのはもちろん壮大な崇高な話なわけだけど、今の例はあんまり崇高じゃない例だけど(笑)、でもこの公式は同じだから分かるよね。公式的には同じ。これは世俗の話だけども、例えば大学教授、あるいは有名な医者であったり、警察官であったり、ある程度の地位、世俗的な名誉っていうものと、一瞬のその盗撮の喜び。それはもちろん天秤にかけられない。しかしそのときには分からなくなってしまう。いやあ、そんなの大丈夫だろう――いや、もちろん大丈夫かもしれないよ。もちろん捕まらないかもしれないよね。見つからないかもしれない。でも見つかるかもしれないよね。で、このギャンブル、これ、普通手出せないですよね(笑)。普通冷静に考えたら。でも手を出す人がいっぱいいるっていうのは、それだけやっぱり無智なんだね。これはちょっと世俗的な例だったけども。
で、ただ実際にはですよ、実際にはこれは大したことじゃない。大したことじゃないっていうのは、皆さんが大学教授からすべり落ちても、警察官をやめなきゃいけなくなっても、そんなことは魂にとっては大したことではない。しかし師や仏陀との縁が傷つくとか、あるいは修行者としての大きな悪業を背負い込むとか、あるいは菩提心が傷つくとかね、これはものすごいデメリットです。もう考えられないくらいのデメリットです。だからそれはほんとに自分に言い聞かせなきゃいけない。そして、繰り返すよ――リアルに考えると、何か悪い心が起きたとき、ああ、ちょっと怒りを爆発させたいとか、あるいはこのエゴを満足させたいとか。もちろんそれも小さいことだったらどうでもいいですよ。小さなことだったらっていうのは、なんだっけ――ちょっと忘れちゃったけど、昔、ちょっと夜中にクリームパンを食べたくてしょうがなくて、とかいう話があったけど、それは別にどうでもいいです(笑)。
(一同笑)
それくらいのことでは別に、菩提心とかグルとの縁壊れないから(笑)。
(一同笑)
それくらいはいいんだけど、そうじゃなくてほんとにけがれた道とかね、ほんとに、あ、これは多分グルを悲しませるなとか、あるいは神との縁を傷つけるなとか、あるいは、もうこれはまさに菩薩としてはちょっとまずいなとか、でもエゴがやりたがってるとかね、そういうのはほんとに考えなきゃいけない。それ、ほんとにそれだけの価値ありますかと。あなたが今そこでエゴを満足させて、それと失うものと比較してね、対比させて、それだけの価値ありますかと、それを自分に言い聞かせなきゃいけないね。