解説「菩薩の生き方」第十七回(8)

「自らに彼らが悪を結果づけても、自らの善は余すところなく、彼らに報われますように。」
これは、そうですね、浅い意味と深い意味があるかもしれない。まず浅い意味としては、表面的な意味としては、単純に、つまりみんなが悪しきことを自分にやってきたとしても、自分は善によって報いる、という発想ね。これはまあ表面的っていうか一般的な考え方ですね。菩薩っていうのは、つまり目には目を、歯には歯を、じゃ駄目なわけです。当然、菩薩はね。そういう馬鹿なことを書いてる仏教徒とかいるけどね。ネットとか見ると、「わたしは仏教徒」と自称してる人で、「すべてはカルマです。ですからわたしは目には目をなんです」と。アホかと(笑)。ね。当然それは駄目です。つまり悪には善を、苦しみには至福を与えなきゃいけない。その発想ね。
でもこれも、それをちゃんと根付かせないと、癖によって、習性によって、「あいつこんなことしてきたんだから、あいつにだけは喜びなんて与えるか!」と。ね。「あいつには苦しみを与えたい」――こういう気持ちがわれわれの中にあるかもしれない。だからもうそれは改造しなきゃいけない。どんどん苦しみは来てくれと。みんながストレスがあったりカルマが悪いんだったら、それを全部受けましょうと。で、わたしは善しか周りに与えないと。喜びだけを与えますと。この発想ね。これが表面的な教え。
より深い意味としては、ここはやはり『入菩提行論』的な発想がある。つまり、みんなが積んだ悪の果報はわたしが受けましょうっていう発想ね。つまりカルマの意味ですね。つまり普通は、例えばY君が泥棒したら、将来貧乏にならなきゃいけない。わたしが貧乏になりましょうと。わたし泥棒してないけど。Kさんが殺人を犯したら、Kさんは将来、地獄に落ちるか、もしくは殺されなきゃいけない。わたしが殺されましょうと。わたしが地獄に落ちましょうと。そのようなかたちで――普通のカルマの法則としては、本人がなした悪をその本人が受ける、当たり前の法則があると。で、その法則を捻じ曲げて、みんなが積んだ悪がこっちに来ますようにと。みんなが積んだ悪が――つまり言い方を換えると、自分は一切の悪を積んでないんだが、個々が積んだ悪で苦しむのを見てられないから、自分に来ますようにと。で、逆に自分が積んだ善――当然、自分が善いことをしたらその善いことは果報として、喜びとして返ってこなきゃいけない。それ、いりませんと。みんなに行きますようにと。自分が積んだ善の果報が自分ではなくてみんなに返りますようにと。
もちろん、現実的にそれが起こるかどうかは別の話。別の話として、発願として持たなきゃいけない。
これは前にも、何回も言ってるよね。わたしも昔そういう発願をよくしてて。で、前にも言ったけど新しい人もいるのでちょっと言うとね、わたしが開発した瞑想法があってね。これ、新しい人はやりたかったらやってみたらいいかもしれないけど。契約書を書くわけですね。イメージで、瞑想の中で契約書を書く。つまり、まさに今言った話なんですけど、今からこの宇宙のすべての衆生が積んだ悪、悪いカルマの果報は全部わたしが引き受けますと。全部わたしに来ますようにと。そして自分が積んだ善の果報、徳ね。つまり幸せになるカルマ。自分がこれからいっぱい修行したり、あるいは徳を積んだりするだろうと。その善きカルマの返りは全部衆生に差し出しますと。行ってくださいと、契約書を書くんだね、イメージで。で、契約書を書いたあとに最後にサインをするんです。ここが大変なんです(笑)。最初まだ菩提心ができていないと、契約書まではいいんだけど、サインの段階でちょっと手が震える(笑)。つまり、「ほんとになったらどうしよう!」と(笑)。この契約書にサインしてしまったら、ほんとにそうなるかもしれない。でもいいと。それが菩薩だと。ぜひそうなってほしい、っていう気持ちでやるんだね。
もちろん、実際にそうなるかどうかは別の話。それはもう神におかませ。現実的には、法則としてはならないよ。法則としてはそれはあり得ないから。でも当然、神の采配によって、そうなるかもしれない。うん。で、なったらそれはもちろんうれしいと。現実的には法則としてはならないはずですけども、わたしがそういう発願をしたならば、神は実際やってくれるかもしれない。みんなこらえ性がないし、みんな苦しみに弱いし、みんなまだ真理を知らないから大変だと。だから全部わたしが引き受けようと。みんななかなか徳積まないし修行しないから、いっぱいわたしが修行して徳積んで、その果報は全部みんなに振りまきたいと。これが法則として可能かどうか分かんないけども、ぜひそうなってほしいと、この気持ちを強く持つんだね。
はい、これはまさに『入菩提行論』の世界ですね。『入菩提行論』ってそういう表現ばっかりですよね。だからそのエッセンスはまさにここに、ナーガールジュナのね、教えの中に隠されてると。
ただこれも、皆さんは徳があるからこういう教えを今聞けるわけだけど、このナーガールジュナのこの一文だけとっても、多分こんな解釈してる人はいないかもしれないね。それは、少なくともわたしは読んだことがない。『入菩提行論』ももちろん、最近ちょっといろんな本が出るようになったけども、もともとは日本ではほとんど知られてなかった。で、今はポツポツ本は出始めたけども、でもほとんどの人は多分注目してないよね。なんとなくダライ・ラマが大事にしてたっていうので有名かもしれないけど、そんなにやっぱり、ネットとか書店とか見てもあんまりみんな注目はしていないと。ましてやこの中観とか空の教えで有名なナーガールジュナの、このわずか一行二行の教えの中にこの素晴らしい菩薩のエッセンスが含まれてるっていうのは、ほんとみんな気付かないと。で、それをみんなこういうかたちで学べるっていうのは、まさに過去世からの大いなる徳であり、縁であると思うんだね。
衆生がたとえ僅かであっても未だ解脱していない限り、そのために、無上の覚醒を得ても、輪廻にとどまる者となりますように。
まさにこれは菩薩の発願ね。「無上の覚醒」――つまり、仮に最高の、この上ない悟りを得たとしても――まあ、当然そこまで得ちゃったらもう輪廻おさらば――ニルヴァーナといってもいいし、ブラフマンといってもいいし、そういう完全なる世界で安住してりゃいいんですけども、しかし一人でも、わずかであっても解脱しないでこの輪廻で苦しむ者がいるならば、わたしはそこに入らないと。輪廻にとどまってみんなを救済したいんだと。
で、これも「なりますように」って書いてあるけど、当然、発願であると同時に――そうだな、発願であると同時に当然、願いですね。つまり何かっていうと、未来は分かんないから。もしかすると自分の中に利己的な部分が残っていて、将来ニルヴァーナに入っちゃうかもしれない。あるいはそうだな、自動的に、まあカルマ的にある段階からニルヴァーナに入るかもしれない。でもそうならないようにと。そうなってほしくないと。最後までいたいんだと。最後まで、最後の最後までみんなの手助けをしたいんだと。そのような菩薩のまさに発願ですね。
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