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解説「菩薩の生き方」第八回(4)

【本文】

 最後に、最後の一文を検討してみましょう。
 善福の願求だけでも仏陀の供養に勝るというのは、仏陀に供養することがたいしたことではないという意味ではありません。そのような志なくただ何気なく供養しても効果は薄いということですね。
 ここで重要な要素は、「縁」と「徳」と「欲求」と「努力」です。
 ある程度の縁と徳があれば、仏陀や聖者とまみえ、供養する機会にも恵まれるかもしれません。
 しかしその縁が、真理に基づいた縁でなければ、そこに正しい「欲求」は生じないのです。
 仏陀や聖者とまみえるだけの縁と徳があり、かつ正しく善や解脱や衆生救済を願う「欲求」があり、かつ実際にそれに努力精進する素養を持つ。
 これらの条件を備えるのは大変まれなことなのです。
 しかもその欲求や努力の方向性が、先ほどからあげているような、全ての衆生の完全な安楽、すなわち全ての衆生を解脱させることに向けられているとしたら――その者こそまさに菩薩であり、その者に生じる功徳は、まさにはかりしれないのです。

 はい。これは本文の最後の一文の、
「ただ善福の願求だけでも、仏陀の供養に勝る。まして、一切衆生のあらゆる安楽のために努力するに勝る善福はない。」
という一文の説明ね。
 この一文とその説明を読んでも分かるように、まあ仏教もそうだしヒンドゥー教もそうなんだけど、こういった文章っていうのはさ、そうですね、まずもちろん深遠な意味が含まれてるっていうのは一つあるけど、あとこういった、シャーンティデーヴァもそうだけど、そうですね、非常に詩的な作者が多いので、まあ、ちょっといろんな、ひっくり返した言い方であるとか、ちょっと特殊な言い換えとかをしてる場合が多いんだね。だからそのまま読むとちょっと勘違いしてしまう部分が非常に多い。だからこういった仏典とかヨーガ経典っていうのは、非常にそういう危険があるので――実際にもちろん、ここで出してるやつとかはこういう感じで解説されたりするので大丈夫だけども、もし一般のそういう仏典とか経典とか読む機会がある場合は気を付けなきゃいけないね。
 ここも、このまま読んでしまうとちょっと勘違いしてしまう。つまり、「ただ善福の願求だけでも、仏陀の供養に勝る。」――つまり、仏陀を供養することよりも、善福の願求、つまり「わたしは善をなしたい」っていう願いの方が上だって言ってるんです。普通そんなことはあり得ないでしょ。当然、普通、なんていうかな、簡潔に考えたら、例えば願求って――望みは望みだから。例えば「さあ、わたしは恵まれない人のために将来働きたい」――これは素晴らしいことだよね。うん。でもこれが仏陀に供養することよりも上っていうことは普通あり得ない。仏陀が現われて仏陀に供養することができたら、それは最高の素晴らしいことだから。だからここで言ってるのはただそういう単純な類比ではなくて、そのような志なく、つまり、例えば徳を積むために、で、その徳を積むっていうのは、みんなのためにそれを振りまけるために、あるいは自分が解脱するために、いろんな意味での高い志を持ち、で、そのために供養する。あるいはもっとバクティ的に純粋でもいいよ。純粋に、さあ、わたしにとってあなたがすべてですと。わたしのすべてはあなたへの供物です。こういう気持ちで供養できたらこれは最高ですよね。で、そうではなくて例えばなんの高い志もなく、あるいはなんの純粋な帰依の気持ちもなく、例えば日課として何か「はい、はい」ってお仏壇に何かあげてたとしても(笑)、それはあんまり意味がない。
 うちのお父さんとかおばあちゃんとかは、毎日仏壇とかに水とかご飯とかあげてたわけだけど、わたし、前にも言ったように、よくおばあちゃんちで過ごすことが多かったので、おばあちゃんのそういうのをよく見てたわけだけど。で、おばあちゃんが仏壇に――浄土真宗だったのか分かんないけど、仏壇の奥に阿弥陀様の絵があって。で、毎日おばあさんが祈りを捧げるわけですね。それはそれで素晴らしいですよね。つまり阿弥陀如来への供養をしてたのかもしれない。でもそこでそのおばあさんが何を考えてるか分かんないよね。うちのおばあさん結構、なんていうかな、もとはちょっといいところのお嬢さんだったみたいで、ちょっと時代がちょっとあれなんだけど、なんか江戸時代の女将さんみたいな人で、キセルとか吸ってた(笑)。キセルとか吸ってて、なんかほんとにどこかの女将みたいな感じで、ちょっとプライドがある感じでね。で、ただ晩年は当然、まあ、もともとはお金持ちだったんだけど、晩年はお金とかもなくなっていって、ちょっと落ちぶれていったので、よく愚痴とかばっかり言ってたわけだね。「あそこのあいつはもう許せねえよ」みたいな感じでこうグチグチやってるわけだけど。でも一応日課として仏壇にいろいろ捧げると。でもそこに例えば、当然心に菩提心もないだろうし、あるいはみんなの幸福を願ってるわけでもない。あるいは自分が解脱したいと思ってるわけでもない。もちろん現世的な見返りは望んでたかもしれないね。例えば、さあ、どうか家内安全でありますようにとか、あるいはもうすぐ死ぬかもしれないから阿弥陀様の浄土に行きたいとかいうのはあったかもしれないけども、でもそうじゃなくて他者への慈悲であるとか、あるいは自分が解脱したいという気持ちであるとか、そういうのがなかった場合、それはまあ、やらないよりはいいが――それよりも、例えばそういうお仏壇に何か捧げるっていうことはしないけども、日々、「さあ、わたしはみんなのために何ができるだろうか。」「みんなのために生きたい」って考える方が当然上ですよね。でもそれは仏陀への供養が、お仏壇への供養とかが悪いとかレベルが低いっていうわけではない。もし供養するならばそのような純粋な気持ちで、あるいは高度な志を持って祭壇とかにしっかり供養したならば、それはもう素晴らしい徳になるっていうことだね。

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