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解説「菩薩の生き方」第八回(2)

【本文】

 そしてそのような心は、菩薩以外の者の中には、自利のためにさえ生じないといいます。
 自利のためにさえ生じないとはどういうことかというと、完全に苦悩から解放されて、無量の功徳を得よう、という、すなわち完全な完成者になろうという思いが、普通は生じないということです。
 つまり、徳を積んで死後、神に生まれたいとか、ある程度の解脱をしたいと思う人は多いけれど、最高完全な解脱を果たし、しかも無量の功徳を具えた完成者になろうという者はまずいないということですね。
 しかし菩薩は、そのような思いを、なんと自分のみならず他の衆生にまで向けているわけです。しかもそれは自分の家族とか仲間とか限定された衆生ではなく、全ての衆生に対してです。

 このような偉大な菩薩の誕生はまことに稀有なことであって、またその菩提心の偉大さははかり知ることができない、といっているわけですね。
 そして「菩薩以外の者の中には、このような心は生じない」という言葉には、トリックがありますね。つまりそのような心が生じたら、すなわちその人は菩薩だということです。

 はい。これは読んだとおりですね。普通は「自利のためにさえこのような思いは生じない」。つまり今言った、みんなを完全な完成者にするっていう思いがあるわけだけど、それは、みんなをじゃなくてまず自分を、自分が完全に完成者になるっていう思いさえ普通は生じない。なぜならば、当然その修行は厳しい。シヴァーナンダとかも言ってるように、修行の道、ヨーガの道っていうのは、決してバラ色の道ではないと。茨の道であると。覚悟して進めって言ってるわけだけど。甘いものではない。つまり自分との戦いがあり、カルマとの戦いがあり、普通だったら乗り越えることが不可能である自分のカルマの壁を乗り越えなきゃいけない。で、乗り越えても終わりではない。乗り越えたら例えば一つ壁が破れ、ちょっと自分の世界が広がり、例えばそれまでね、地獄・動物・餓鬼をうろうろしてた魂が天の世界に行けるかもしれない。でもまだ天ですよね。で、天からさらに一生懸命修行してもっともっと壁を乗り越えたら、今度は例えば色界といわれる、まあ、より高い天の世界に行けるかもしれない。で、さらに頑張ったら、この三界を超えてニルヴァーナに行けるかもしれない。で、ニルヴァーナでさえまだ途中段階であると。さらにさらにより精進をして、多くの苦悩に打ち勝って、で、より高い解脱を繰り返し、そして最終的に如来に至ると。仏陀に至るわけですね。これは壮大な道であると。
 で、そこまでの、つまりその最終段階までの発願をする者っていうのは、普通は非常に少ない。なぜかっていうと、もう一回言うと、まず厳しいと。道がね。そしてもう一つは、やっぱり魂の、なんていうかスケールってあるんだね。魂のスケールっていうのは、さっき言ったように、例えば、ここでもよく冗談みたいに言うけど、地獄・動物・餓鬼をうろうろしてたらね――いつも地獄でワーッて苦しんでて、やっと地獄から解放されたと思ったら動物であると。まあ動物は地獄よりはましだと。ずーっと苦しいわけじゃないから。でもすぐに弱肉強食でほかのものに食べられたりとか、あるいは食べられなくてもほんとに雨に当たり風に吹かれ、その厳しい自然の中で生きなきゃいけない。あるいはいろんな病気や怪我で苦しまなきゃいけない。あるいは精神的にも動物っていうのは非常に恐怖に満ち、怠惰に満ちてると。そのような苦しみを味わうと。で、また地獄に落ちるかもしれない。あるいはたまには低級霊、つまり、まあ非常に精神的苦悩の多い霊の世界に生まれるかもしれない。そのような地獄・動物・低級霊の世界をうろうろしてた魂がたまに人間に来たら、それは当然人間界は非常に楽しい。うん。人間界は非常に楽しいけども、例えばその魂が真理と縁があったら、あるいは偉大な聖者と縁があったら、その聖者の導きによって修行するかもしれない。で、このタイプの魂っていうのは、あんまりやる気がないと。なぜかというと、修行しなくても人間界楽しいから。ね(笑)。それまで地獄・動物にいたから、人間界楽しいからあんまりやる気がないけど、聖者の慈愛によって引っ張られてなんとか修行して(笑)、で、やっと乗り越えたと。乗り越えたら天界ですよ(笑)。ね。人間界でさえも楽しくてしょうがなかった魂が天界になんか行っちゃったら、もう修行なんかやる気ないですよね(笑)。これ以上苦しいことしなくていいと。わたしは天界で十分だと。うん。
 で、これは今、冗談みたいに言ったけど、この今言ったようなことが相対的な感じで当然あるわけだね、いろいろね。ある人物は天界では満足できないけど、でも色界まで行っちゃったらもういいやと思っちゃう。これ以上そんなに自分と戦わなくていいと。この色界は素晴らしいんだと。こういう感じでそれぞれのスケール感がある。ある魂はもちろんニルヴァーナまで目指すかもしれないが、ニルヴァーナで完全に心の寂静を経験したら、「いや、これ以上はいらない」って言うかもしれない。
 じゃなくてほんとに、ね、それはいろんな意味で、例えばある者はものすごく慈悲が強く、で、ある者はものすごく向上心が強く、で、ある者はそうじゃなくて、もともと至高者へのバクティの気持ちがあって、例えばわたしはしもべとして、道具として、完璧な道具になりたいんだっていう気持ちが強――そういったものが強い魂は、当然、今のままじゃ駄目だって思う。わたしは完全にならなきゃいけないんだって思う。で、こういうことを自分自身に対して思う者も非常に稀だっていうことですね。
 で、それどころか菩薩は、自分どころかみんなをその境地に至らせないと気が済まないと。みんながほんとに完全な境地に帰らないとわたしは全く心が安らがない――これくらいの強い慈悲を持つのが菩薩だっていうことですね。
 だからそんな魂は――もう一回言うけども、自分自身に対してさえ普通はある程度の幸せで満足するのに、自分自身だけではなくてすべての魂を完成者にしなければ気が済まない――これだけの強い慈悲を持つ存在っていうのは、まことに稀有であると。そのような菩薩の誕生はまことに稀有であって、その菩提心の偉大さは計り知ることができないと。

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