解説「菩薩の生き方」第五回(10)
◎バルドと夢
(A)バルドで味わう苦しみっていうのは、ものすごいものなんですか? それから、「ああ、周りの人が苦しんでる」っていうふうに気付けますか?
うーん、難しい問題だね(笑)。「普通」って言うとちょっと難しい話だけど。つまり皆さんはどうかっていうのはちょっと別にしてね、一般論で言うと、かなり難しいです、気付くのは。
だから、これはさっき言ったのはわたしの例なので、ちょっとわたしの話になっちゃうけども。だからそういう意味ではわたしの中に相当それは根付いてたんでしょうね。だから逆に言うと、それだけになんなきゃいけないっていうか。
つまり、なんていうかな、そうだな……わたしが経験したバルドっていうのは、いろいろあったんだけど、ただわたしはね、そうだな、まあ比率で言うならば、地獄のカルマはあんまりなかったんですね、もともとね。蓮華座もわたし全然痛くなかったし。いつも言うように、ちっちゃいころ、人を憎むっていう気持ちがよくわかんなかったっていうか。怒りとかもなかったっていうか。まあ、そのあとの教育でだんだん出てきたんだけど。ちっちゃいころ、覚えてるんだけどね、わたし。怒るふりをしたりとか。なんか、自分があまりにも怒らない優しい感じがあって、なんかそれが良くないことのように思ってた時期があって。ちっちゃいころね。で、わざと怒ってみたりとかいう――で、それでだんだんはまっていったときがあったんだけど(笑)。それでだんだんけがれていったっていうか(笑)。でもまあ、もともとは少なかった。地獄のカルマがね。
だからほんとの地獄のひどいバルドってあんまりわたしは経験しなかったんです。多分ね、そうじゃなくて地獄のカルマが強い人は、実際に例えば自分が切り刻まれたりとかね、非常にこう猟奇的なっていうか、もうほんとに気が狂いそうになるような猟奇的なイメージをたくさん経験するでしょうね。わたしはそれはなかった。それはなくて、そうですね、動物とか餓鬼のカルマは結構強かったかもしれない。ただまあ動物とか餓鬼っていうよりは、なんていうかな、ちょっとどこにも分類されない、いわゆる悪趣のバルドってあるんだね。まだ地獄とか動物とか餓鬼とか確定されてないけども、まあ悪趣への道っていうか。そこに魂が入ると、もうほんとに苦しいんです。別になんか、切り刻まれるとかなんかあるわけじゃないんだよ。もうちょっとその前段階みたいな感じで、もう心の中の苦しみのデータがいっぱい出されたような感じね。もう苦しくてたまんないっていうか。ウワーッて感じ。で、周りの苦しみには普通気付けません。
だから自分でイメージしたらいいかもしれないけど、ほんとに自分が一番、まあそうですね、肉体的なのが一番いいと思うけども、肉体的に、例えばですよ、ちょっと嫌かもしれないけど、例えばAさんがこう捕まえられて、目玉をほじくられてると。ね。例えばですよ(笑)。耳に棒突っ込まれてると。生きながらね。で、生きながら、体中ズブズブ刺されてると。もう痛くて痛くてしょうがないと。あと恐怖。「次何やられるんだ!」と。「うわー! 頭おかしくなりそうだ!」――ここで、周りを見たら、周りもそういう人がいて、それを見て、「みんなを救うぞ!」って思えるかと(笑)。
これは一つのイメージですけどね。まあ、つまり実際にそういうのが来るっていうわけじゃないよ。今のは例え話であって、実際にそういうイメージがあるわけじゃなくて、なんていうかな、例えば苦しい気持ちだけが来るとかあります。苦しいっていう思いだけでいっぱいになる。ウワーッて頭おかしくなるぐらいの、「なんだこの苦しみは!」っていうようなものに襲われると。
で、一番いいのはさ、もちろん最高なのは、そういう状態にさえならないのが最高です。いつも菩提心で満ちていて、そんなバルドに落ち込まない人がいたとしたらそれは最高だよね。だからそうじゃなくて一瞬落ち込んだとしても、そこで例えば苦しむ他の衆生っていう条件がパッと見えた段階で、そこで――だから、そうだね、わかりやすい言い方をすれば、そこで選択が出る。そこで自分の苦しみに引きこもるのか。「いや、ちょっといいよ。他人のことはどうでもいい、おれは苦しいんだ!」――これはもうずーっと悪趣です。ね(笑)。だからこの選択の中で、「みんなも苦しんでる、おれも苦しい」のときに、「みんな大丈夫か?!」ってなれるとしたら、パッと世界が変わるっていうことなんだね。だからそれは、普段からそういう癖を付けなきゃいけない。
でもね、さっき難しいって言ったけど、一つのバロメーターとなるのは、夢です。夢。夢っていうのはさっき言ったように潜在意識なので、バルドに近いので、もし皆さんが夢の中で、自分よりもみんなを取れるっていうことを、一回じゃなくてね、何度も経験できたとしたら――まあ一回でもいい。一回でも経験できたら、結構根付いてると。結構経験できてたら、バルドで目覚める可能性は結構高いと。
わたし、前に言ったかもしれないけど、昔ね、すごく若いころに、結構ショックなことがあって。ショックなことっていうのは、夢でね、ちょっと細かいことは忘れちゃったけど、夢で、火事かなんかだったのかな。火事かなんかの夢を見て、で、もうほんとに、自分も助かるかわかんないような状況で、ほかのちょっと逃げ遅れた人もいたんだけど、ほっぽいてわたし逃げてしまった夢を見たんだね(笑)。で、それを、まあ昔の話ですけど、見たときにちょっとショックで。「ああ、わたしはなんか菩提心とか言ってるけど、まだこのわたしの心には――まあそれはもちろん一回だったんだけど――一回でもそういう選択をするイメージが出るような、エゴというか――がやっぱり根付いてるんだな」と。「これはまずい」と思って。まあ、もちろんもう一回そういう夢を見るかわからないけど、次にそういうシチュエーションの夢を見たとしたら、絶対に他者の方を取れるようにっていう一つの、なんていうかな、具体的なイメージを持って目標を持って、修行してね、で、だんだん夢見も変わっていった覚えがある。
だから夢見っていうのはさ、皆さんよく「こういう夢どうなんでしょう?」ってあるけども、その夢の状況よりも、菩薩としてはね、その状況はどうでもいい。暗い夢を見ようが明るい夢を見ようがいいんだけど、そこで自分がどういう態度を取れるか、そっちの方がどっちかっていうと重要ですね。例えば、「先生、わたしは天の夢を見ました」と。「素晴らしい至福の世界で、わたしは自分の喜びに没頭してました」――これもいいんですけども、じゃなくて例えば、「いやあ、非常に暗いドロドロした地獄みたいな世界に落ちました」と。でもそこで、夢の中でみんなのために何かしてあげようと思ったとかね、あるいは夢の中で、早くみんなを救いたいと思って修行したとかね、もしこういうのだったらそれは素晴らしい。それは菩薩の夢っていうことになるね。
はい。まあ、夢は一つのバロメーターだけどね。だからそれくらいの具体的指標を持って、根付かせるように頑張ったらいいね。
(A)はい。ありがとうございました。
つけたしとして、今、菩提心っていうのを柱として言ったけど、バクティっていう意味で言うならば、わかると思うけど、バルドにおいて、あるいは深い意識において、いかに神を思い出せるか、これが一つの指標になります。つまり、「わたしには神しかいないんだ」っていう思いを、バルド、つまり自分の潜在意識のカルマがバーッて出てるときに、パッてそっちを思い出せるか。グワーッていろんな苦しみに苛まれたとしても、「いやあ、わたしには神しかいない」っていう思いが出たら、それはそれで救われる。別パターンとしてはね。
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