解説「菩薩の生き方」第二十回(2)

二.そしてその記憶した教えに基づき、常にこの世の中や自分自身のことを観察し続けるのです。そしてその観察の仕方の大きな柱となるのが、四念処なのです。
つまりこの身体というものがいかに不浄であり無常であり苦であり実体がないか、感覚がいかに無常であり苦であり実体がないか、心がいかに無常であり苦であり実体がないか、そしてこの世のすべての存在や現象が無常であり苦であり実体がないかということを、繰り返し繰り返し、日々観察をしていきます。
もちろんこの土台の上に、衆生への慈悲や、仏陀への帰依の心、その他様々な教えを、実際の現象に当てはめて、繰り返し繰り返し心で修習していくのです。
そしてそれは、まだ我々は悟りを得ていないのですから、あくまでも教学で記憶した内容のアウトラインに沿って観察修習を繰り返すことになります。つまり正しい教えの記憶のインプットとアウトプットの繰り返し作業が必要なのです。そして正しくアウトプットされたものの見方によって、再び深く思索されたその内容は、より深みを持ってまたインプットされます。この繰り返しにより、正観、正しい現象の見方が身についていきます。
はい。二番目として四念処。まあ、念といった場合、繰り返すけど、広い意味においてはまあ、記憶から始まり、非常に重層的な意味があるわけだけど、狭い意味では、仏教で普通「念」と言った場合、この四念処を指す場合が多いと。
この四念処は、何度も出てきてるけど、身・受・心・法っていうやつね。身・受・心・法っていうのは、身――つまり身体ね、体。受――感覚。心――心。最後の法っていうのは一切の現象っていうかな。これらをしっかりと観察し続けると。
で、それはセオリーがあります。このセオリーはちゃんと教えとして入れるわけだね。まあ、これが、さっきも言ったけども、ダルマなしにはできない。まあ、これもさ、最近の現代的なマインドフルネスっていうやつも、最初は、外国のね、あるお坊さんがそれを前面に押し出したらしいけども、そのブームに乗って、みんなちょっと節操がない感じでさ、みんな「マインドフルネスなんとか」「マインドフルネスなんとか」――まあ、売れるからね(笑)、そういう本をいっぱい出してるわけだけど。で、そういうのをパラパラ見ると、なんかみんな、それぞれのフィーリングで、まあ、いろんなことを書いてると。その中にはこの四念処的なことを書いてる人もいるんだけど。つまり体と感覚と心、これを観察するんだと。でも例えばそういうのを見ると、どう観察するかは書かれていないと。これだとなんにもならないよね。もちろんその人に智慧があればいいけども、智慧がなくて瞑想して体を観察したってさ、そこからどこにいけばいいのか分からないですよね。あるいはどのレベルで観察するかっていうのは、その人の智慧のレベルによってしまうから。
つまりこの四念処の、一番最初の――もちろん四念処も実はね、レベルがあります。いろんなレベルがあるんだけど、一番最初に行かなきゃいけないのは、「体は不浄である」と。つまり汚いと。そして「無常である」と。そして「苦しみである」と。ここにたどり着かなきゃいけないんだね。でもその教えが最初になかったらさ、「体は――気持ちいい」。ね(笑)。「体は軽快である」と。確かに若くて元気なら軽快ですよね。「体を分析してみましょう。」「体とは軽快なものである。こんな体を得て良かったなあ。」(笑)――真逆だよね(笑)。どんどんこの肉体に結び付けられてしまう。あるいは人の体を見ても、普通は、「ああ、あの人もあの人も、あんなきれいな人も実は糞尿の袋だ」とかやんなきゃいけないんだけど、「あの人の体は素晴らしい」と。「あの人の顔も素晴らしい」と。「わたしもああなりたいな」とかやってたら(笑)、
(一同笑)
意味がない(笑)。だから最初にはダルマにのっとった正しいデータが必要であると。
で、そのデータに基づいた四念処、これもまず基本的には、皆さん分かると思うけどね、ここに書いてあるように、まず肉体に関しては不浄から入ると。まあ不浄というよりも、最初は、解剖学じゃないけども、解剖学に近いような分析をするわけですね。これも何度も言ってるけど、一応ね、新しい人もいるのでちょっと言うと、例えばこの肉体って、「わたしの体」って「わたし」は言うわけだけど、そして第一にわれわれはこの体をもって「わたし」っていう自我を持っちゃってるわけだけど、「本当にこの体っていうのはわたしなんだろうか?」と。こういう分析から例えば入ると。何をもって、この体のどこをもって「わたし」と考えるんだろうかと。例えばね。まあ、これも何回か言ったけど、例えばこの全体をなんとなく「わたし」ってあいまいに思ってるわけだけど、じゃあ髪の毛一本パッて切ったら、この切られたものはわたしなのかと。そうじゃないですよね。じゃあもうちょっと、バサッと左腕を切られてしまったと。バタッて左腕が落ちたと。この左腕はわたしなのかと。違うよね。「わたしの左腕が落ちた」とは思うけども「わたしが落ちた」とは思わないよね。じゃあどこをどうしたらわたしなんだと。本体はどこにあるんだと。うん。つまりあいまいなんだと。しかも、この肉体っていうのも一塊ではない。一塊ではないっていうのは、つまり単細胞じゃないよね。単一の何かがグッて「おれ」ってなるんじゃなくて、まずそもそも、最も中核をなす骨、骨格。これからもう一つじゃないですよね。つまりこの骨っていうのは全体でなんか一個の骸骨があるんじゃなくて、いくつかは忘れたけど、いくつかの骨のパーツでできてると。つまり、よく関節技とかで関節が外れるように、それぞれは別々のものがガチャってドッキングしてるだけです。外してしまえば、たくさんの骨になると。そのどれがあなたですかと。ね。どれもただの部品にすぎない。それをカチャッカチャッて当てはめて骨格ができましたと。
そこに脳や内臓を入れ――脳っていうのは一つの、われわれの思索を手助けしてくれるシステムにすぎないよね。脳がわたしたちっていうことはないでしょ。脳がわたしたちだったら大変だよね。脳ってさ、まあわたしも脳は見たことはないけど。実物はね。豆腐みたいに柔らかいと。実際はね。ぐにゃぐにゃとした柔らかいものであると。わたしたちの本質がこれっていうことはないですよね(笑)。あるいはわれわれはよく何か感情が出たときに、胸にぐっとくるものがあると。「心臓がわたしたちなんだろうか?」――実はね、これちょっと近いです。近いっていうのは、ヨーガ理論でいうと、心臓にアクセスポイントがあるのは間違いない。心臓の中に真我っていうか、われわれの心の奥深くに行くアクセスポイントがあるんだね。だからここから、これを取っ掛かりとしてわれわれの本性に入っていくことはできるけど、でも心臓そのものがわれわれじゃないよね。これはただの筋肉に囲まれた、ドックンドックン動いてる臓器にすぎない。
で、このような臓器がその骨の骨格の中に入れられて、血管や神経やその他の管でつながれ、で、それらが筋肉と脂肪で覆われ――まず腱で筋肉がつながれ、筋肉が全身につながれて、これも筋繊維ですからね。筋繊維がつながれて、で、脂肪というもので覆われ、で、真皮――つまり深い皮がまず張られ、一番表面の皮が張られると。はい、人間出来上がりと。ね。どこがおれなんだと。今言ったようにパーツ――つまりプラモデルみたいに――わたし小学校のころ、ガンダムのプラモデル作ってたけど(笑)、例えばパーツがまずあると。パーツはもうパーツであると。で、それを一個一個ガチャガチャってはめて、接着剤とかつけて、ガチャってはめて、一つの例えばロボットが出来上がると。それと同じようなもんだと。一つはね。
つまり、わたしの本質は体だろうか? そんなはずがないと。なぜかというと、どこからどこまでをわたしの体というのかと。で、もっとこれを細分化すれば、当然細胞、そして原子まで行き着くと。つまりそもそもこの体は、さっき言ったように単細胞ではない。単一ではなくて、無数の細胞、そして原子の集まりにすぎない。じゃあどの原子までがわたしなんだと。で、前にも言ったように、この地球の原子はだいたい一定だといわれるから、一つの考え方としてね――例えばある人、人じゃなくても、例えばこのコップとかでもいいけども――まあ、人の方が分かりやすいか。ある人の細胞を構成していた原子が、例えばその人の体からちょっとはげ落ち、で、それが土になり、で、いろんな長い年月をかけて食物となって口に入れられ、別の人の体を構成する原子になる可能性もあると。じゃあ「この原子おれだ!」って言ってたのが違う人の体になってたりとか、あるいは違う、何かの物体になってたりする場合もあると。そうなると、そもそも「この肉体がわたし」って言うと、考え方があまりにも脆弱で、非常に弱い基盤の上に成り立ってることが分かると。これが一つね。
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