解説「菩薩の生き方」第二十四回(1)

2018年7月4日
解説「菩薩の生き方」第二十四回
【本文】
心の落ち着かない人々の間におれば、(用心深い負傷者は)注意して傷を守る。
それと同様に、悪人たちの間にあっては、常に心の傷を守るべきである。
【解説】
我々が体のどこかに怪我をしていたとして、周りに、たとえばチンピラとか、怒りっぽくて暴力的な人たちがいたとします。その場合、いつ彼らが気分を害して我々に襲いかかり、この傷が悪化してしまわないかと、注意して傷を防御するでしょう。
同様に、我々は心に傷を抱えています。ここでいう心の傷とは、トラウマとかそういうことではありません。煩悩に汚された悪しき心の部分です。どんな善人でも、修行者でも、完全に解脱していない限り、何らかの心の汚れ、煩悩を持っています。それを心の傷と表現しているのです。もちろん、それを治療するために修行しているわけですが――悪人たちの中にいると、肉体の傷を害される危険性があるのと同様に、この心の傷を害される危険性もあるというわけです。
それはどういうことでしょうか? ここでいう悪人とは、煩悩多き衆生のことですね。煩悩多き人々と一緒にいると、当然、自分も心に潜んでいた怒りや執着や慢心などの傷がくすぐられ、悪化し、いつの間にかそういった煩悩で心がいっぱいになったりしてしまいます。だからそうならないように、注意しておけと。自分の心の中に潜んでいる汚れが増大しないように注意しながら、煩悩多き衆生と接しなさいということですね。
この部分は、わかりやすいと言えばわかりやすいね。「心の落ち着かない人」――つまりここにあるような、もっと言えばチンピラとか怒りっぽい人、暴力的な人、あるいは、ちょっと何するかわかんないような人。そういった人たちの中に、負傷した人、つまりちょっと今、腕を骨折してるとか、あるいは大きなけがを負ってるとかね、その場合、当然ですけども、そういう暴力的な、あるいはチンピラ等の中にいたら、ちょっと何かあると、その傷を何かやられるんじゃないかと。あるいはすぐに何かで怒って自分を攻撃してくるかもしれない。そうしたらその傷がより悪化するかもしれない。そういうかたちで注意して守るだろうと。で、それと同じように、「悪人たちの間にあっては、常に心の傷を守るべきである」と。
はい。で、この「心の傷」っていうのは、別に「わたしは心に傷を抱えてる」とか、そういうトラウマみたいなもののことではなくて、心のけがれ、煩悩であると。つまりなぜそれが心の傷かっていうと、例えとしてわかると思うけど、別の言い方をすれば、われわれの魂、つまり皆さんは、いつも言うように、本来は煩悩がないっていうことです。本来は煩悩がない。あるいは心の苦しみが何もない。これが皆さんの心っていうか、魂の健康な状態っていうことです。それが今皆さんは心に煩悩があり、煩悩から来る苦しみを持っていると。これが病気あるいは傷だっていうことですね。
で、それはもちろん完全な聖者じゃない限りみんな持ってるわけだけど、皆さんの場合、つまり修行者の場合は、それを今治療する方向に向かってるわけですね。普通はそれが治療できないというよりも、自分がそのような魂の傷、病気にかかってること自体が理解できてないから、日常の中でそれをどんどん悪化させる生活をしてると。で、皆さんはそれを治療する方向に今持っていってると。
で、さっきの例えに戻るけども、実際けがとか病気がある人は、それを悪化させられてしまうかもしれない人々の中にあっては、なんとかその傷を守って、大事にそれが悪化しないように気を付けると。それと同じように、皆さんも――ここで悪人と書いてあるのは、煩悩を多く持ってる衆生と一緒にいると、自分が持ってる傷、つまり自分のこの心のけがれとか煩悩も、また悪化してしまう可能性があると。だからその例えと同様に、ほんとに注意深く、つまり、ね、この傷に誰も触れないように、あるいは何か攻撃が来たとしてもそこに当たらないように、徹底的にその傷を守るように、皆さんがこの――つまりさ、いつも言うように、われわれはこの世間で修行してるから、多くの煩悩的な人、あるいは人だけじゃなくて、情報の中で生きてるわけだね。ネットもそうだし、あるいは街を歩けば当然多くのコマーシャル、人の煩悩をくすぐるような情報に満ちてると。そのような中で、自分の心がより悪化しないように、あるいはより煩悩が増えないように、しっかりと注意して守りなさいっていうことですね。はい。これはわかりやすいですね。
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