yoga school kailas

解説「菩薩の生き方」第二十六回(3)

【本文】

 しかし、危難とか祭礼などの場合において、それ(様々な実践規律)ができない場合には、随意に振舞ってよい。なぜなら、布施を行ずる時に、(場合によっては)戒は無視してもよいと説かれているから。
 けれども、自覚して事をなし始めた場合に、それより他の事を考えてはならぬ。まずそれに心を傾倒して、そのことを完成すべきである。

 かようにして、すべてはよくなされる。そうでなければ、事柄は両方とも成立しないであろう。そして、無自覚(無正智)という煩悩は増大するであろう。

【解説】

 まず最初の部分は、慎重に読み取らなければなりませんね。戒律や実践規律は、もちろんできうる限り守るべきですが、あまり頑なになって、本末転倒になってはいけないということです。結局目的は、自己の心を統制すること、そして悟ること、そして衆生に利益を与えることなのですから、そのために何らかの行いをなそうとするときに、日ごろのオーソドックスな心の持ち方や行いと反することをしなければならないとき、そのときは戒にとらわれずになすべきことをなせ、ということですね。
 この辺は頭を柔軟にして理解しなければなりません。ここは決して戒を軽視しているわけではありません。しかし戒にとらわれすぎてもいけないのです。結果的に何を目的に、何を今なさなければならないのかを自覚することが重要です。

 そして、もし自覚して何かをなそうとした場合には、他のことを考えてはならぬ、とありますが、これはどういうことかといいますと、たとえばAという修行を行なう場合と、Bという修行を行なう場合とでは、心の持ち方とか、行動の仕方とか、やって良い事と悪いことなどが違う場合があります。そしてAという修行をやろうと決意した場合には、それがBの修行にとって悪いとされていることだとしても、関係ないのです。
 たとえば例を挙げましょう。ブッダに食事を供養する祭典があったとします。そのとき、普段は食べないようなご馳走が出たとします。その場合は、「これはブッダへの捧げ物であるから、私の肉体を使って代わりに頂くことで、仏陀に供養させていただこう」と考え、それらの食事を味わい、十分に供養する瞑想をしながら、おいしく頂けばいいわけです。
 しかしそこでそれを食べながら、「俺は昨日まで質素な食事を続けてきたのに、こんな豪華な食事を食べてしまっていいのかな」などと考えてはいけないということです。質素に徹する修行をしているときにはそれに徹すればいいし、仏陀への供養の修行をするときにはそれに徹するのです。そうではなく、一方に心を残したまま他の修行や行為を行なうと、結局、両方とも成就できずに駄目になってしまうということですね。
 だから良い意味で、心を柔軟に保ち、この修行や教えの意味がどういうことであって、私は今何をなすべきなのかということを、正確に捉える必要があるのです。そうでないと、その心の固さによって、まじめなのにも関わらず、結局逆に無正智の状態に陥ってしまいますよ、という注意ですね。

 このような部分を見ても、本当にこの経典は実践的であると思いますね。深い意味合いを理解してこの経典を読むなら、現代においても十分に活用できる、修行者のマニュアル本になるでしょう。

 はい、まあ、これは詳しくね、こういうふうに説明してあるので、これだけでも分かりやすいと思いますが。戒律っていうのはいろいろありますよと。あるいは教えの中で「こういうふうに生きなきゃいけない」っていう教えがいっぱいありますと。で、そもそもこの念正智の教えは、それらをしっかり学び、で、それらどおりに心を調御し続けると。で、心だけではなくて、身の行ない、あるいは言葉の行ないもしっかりと調御し続けると。
 で、特にね、この『入菩提行論』は、実際にはもちろん全菩薩向けなわけだけど――全菩薩って変な話だけど(笑)。あらゆる環境の菩薩向けなんだけど、でもこの当時の一つの、なんていうかな、中心的な対象としては、やはり出家修行者なんだね。出家修行者がまず第一の対象として置かれてると。で、出家修行者の場合、もともとの原則的な戒律みたいなのがあって、それはね、数百個あるんです、数百個。もうほんとに細かい戒律ね。だから、教えにのっとった心のコントロールだけではなくて、出家、昔のインドの出家修行者はそういう厳しい、ほんとに一つ一つその戒律どおりに生きなきゃいけなかった。だからそのとおりに二十四時間生きられるように自分をチェックするわけだけど。しかしここであるように、実際には、「危難とか祭礼などの場合において」ってあるけども、場合によっては、戒律として定められてるものと違うことをやんなきゃいけないときがある。そういうときは別にかまわないよと。かまわないどころか――もちろん、なんていうかな、駄目なことは駄目ですよ。ちょっと心を変えて悪いことをやるっていうのは駄目ですけど、じゃなくて、別の何かやるべきことをやると。でもそれは今まで守ってた戒律とか、あるいは自分がやってきたこととはちょっと違うことであると。でももしそれが、やるべきことっていうかな、素晴らしいことだとしたら、それは全く関係がないと。
 それは分かると思うけどね。いつも言うようにね、戒律自体が実際には絶対的なものではなくて、あくまでもわれわれを高い世界へ引っ張り上げるための矯正ギプスみたいなもんですから。ね。戒律っていう観念に縛り付けることで、グーッとわれわれを高い世界へと引っ張り上げるんだね。
 クンダリニーヨーガ的な発想で言うと、これも前に話したと思うけど、われわれのナーディー、つまり気の通る道っていうのは体に無数にあって。で、そのナーディーを詰まらせるものは、観念なんです。観念。で、われわれは高い世界に意識を上げ、エネルギーを上げたいんだけど、詰まってます。で、これは観念で詰まってるんです。つまり皆さんが昔から培ってきた自分なりの――つまり煩悩も観念だからね。煩悩あるいはエゴ的な考え、あるいは自分の観念によってグルや仏陀の教えが入らないと。突き抜けられないと。よってそれは観念を捨てて帰依をして、道を作んなきゃいけない。
 でも逆に、戒律、あるいは教えでこうなってますから守らなきゃいけませんよ――これも観念ですよね。これは聖なる観念。この聖なる観念は、もう分かると思うけど、われわれの下のナーディーを詰まらせるんです。詰まらせるっていうよりも、実際には縛り上げるといった方がいいね。縛り上げることによって、下にエネルギーが行かなくなる。あるいは下にあったエネルギーが上に行かざるを得なくなる。これは分かるよね。つまり、例えば今までは、異性を性的な目で、もう街を歩けばいっぱい見てたのが、「いや、異性を性的な目で見ちゃいけませんよ」っていう観念ができたことによって、見れなくなっちゃうよね。そうすると今までスワーディシュターナに行ってたエネルギーが行き場を失って、上がるしかないよね。あるいは今まで、自分に害を与える人は憎めと。憎んでかまわない。悪口を言ったり攻撃してかまわないって思ってたのが、「駄目ですよ」って言われたことによって、ムーラーダーラの怒りのエネルギーにエネルギーが行けなくなっちゃう。この観念によってエネルギーが逆転して上に向かうと。これが、素晴らしい戒律の一つの意味合いだね。
 はい、しかし、繰り返すけど、でも逆の言い方をすればそれは観念にすぎないと。よって、なんというかな、これは教え自体もそうなんだけど、戒律も、あるケースにおける、ある場合における、われわれを高い世界に導くシステムであって、もし違うケースが来たら違う観念を適用した方がいい場合もあると。
 はい、それはだからケースバイケースだからなんとも言えないんだけど、ここで分かりやすく説かれてるのが、例えば、供養の会とかあった場合ね。「はい、じゃあ今日は仏陀においしいごちそうを供養する会をしましょう」と。でもその修行者は今まで、ね、食と闘い、もう質素な食べ物しか食べないっていう修行をしてたとするよ。でも例えばグルの命令とかによって、「じゃあ今日はみんなで供養の会だ」といって、ごちそうが出たとするよ。ここで、もしその人が観念があったら、「いや、わたしは、こんなもの食べてしまったらわたしの修行は駄目になっちゃう!」ってなっちゃうけども、いや、そうじゃないんだと。そういう場合にはもちろん、例えばそれは、正統的なっていうかな、グルが用意したとか、そういう条件によって、とても素晴らしいごちそうを供養するような祭典があったとしたらね、それはもう逆に、心をそっちの方に向けて。つまり今まで仮にね、質素なものしか食べないっていう修行をしてたとしても、いったんそれはストップして、その場においては、「おお、これはなんて素晴らしいんだ! 素晴らしい!」って言って食べると。
 で、そのあとに書いてあるのは、そこにおいて徹底的に心をチェンジしなさいと。それ意味分かりますよね? 「あ、今日は供養の祭典である」と。「今日はおいしいごちそうを、自分の体を使って、神や仏陀やグルに供養する修行なんだ」と。そのように心をチェンジしたら――つまりこの間までは徹底的な質素にやってたんだけど(笑)、今日は「うまい、うまい!」と。ね(笑)。これでオッケーっていうことですね。「これは素晴らしいごちそうだ!」と。「これこそ供養に値する!」と供養すると。
 もっと極端な例を言うとさ、例えば、ミラレーパの弟子のガンポパの話がありますよね。ガンポパっていうのはもともとは、チベットのカダム派っていって、非常に固い、つまりガチガチの厳しい戒律重視の派にいて、清らかな戒律を守ってた僧だったんですね。しかし縁があってミラレーパの夢を見て、「あ、この人は素晴らしい」っていうことでミラレーパに会いに行くんですね。で、ミラレーパに会いに行ったら、ミラレーパが、「じゃあ、これを飲め」って言って酒を出すんだね。で、ここで一瞬ガンポパは、一瞬ちょっと考えるんです。つまりガンポパは、もう一回言うけども、戒律を完璧に守っていた清らかな僧であったと。つまり仏教の一般的な戒律においては酒は飲んではいけないと。でもミラレーパは密教行者だから、密教行者の場合、もちろん密教行者が全員酒飲んでいいってわけじゃないんだけど、ミラレーパはもちろん、そういうのは超越してると。で、しかもグルであるミラレーパが、この出会いの場面において、酒を出してくれたと。で、ここで、もう一回言うけど、観念があったら、「いやいやいや」と。ね(笑)。「戒律がありますから」ってなっちゃうよね。でもそうしてしまうと――これはこの特殊な場合だけどね。せっかくのその密教的なグルであるミラレーパとの縁を傷付けてしまう。で、それを悟ったガンポパは、それを頂き、で、それを見てミラレーパも大変喜んだっていう話があるけどね。
 だから、繰り返すけど、戒律、あるいはある方向性を持つ教えっていうのは、ケースバイケースであると。で、それが、なんというかな、ある場合において全くそれが外される場合は、当然外さなきゃいけないし、そして外したところに心を集中しなきゃいけない。
 あるいはここで「危難」っていう言葉も書いてあるけど、危難っていう例でいったら、例えば、そうですね――じゃあ例えばですよ、これも厳しい出家修行者の場合、異性を徹底的に避けなきゃいけないと。例えば男性の出家修行者は、決して、女性に触れることも許されないと。でも例えばさ、分かると思うけど、例えばですよ、歩いてたら、女の子が崖から落ちそうになったとするよ。で、出家修行者が、「わたしは触れられませんから」とか(笑)、これ、駄目ですよね。その場合は当然ちゃんとつかまなきゃいけない。ちゃんとつかんで引っ張り上げると。「あれ? でもそれ、戒律としては触れちゃいけないっていうのを破ってますよね?」――いやいやいや、この場合はまさに救済として、触れてつかんで引っ張り上げるのが正しいってなるよね。
 あるいはさ、前にも言ったけど、例えば、ちょっと狂ったようなね、あるいは強盗みたいな人が皆さんを襲ってきてね、ワーッてこう刃物を持って突っ込んできたとするよ。で、皆さんそこでさ、「慈悲です」とか言ってさ(笑)、何も抵抗せずに刺される必要はないですからね。もちろん可能だったら逃げればいいし、あるいはもし逃げられない場合、仮にね、可能ならば、相手を蹴っ飛ばしてかまわない。あるいはぶん殴ってかまわない。「え? それはだって暴力のカルマになりますよね」と。いや、でもそこで相手に悪業を積ませてね、あるいはもし自分がそこで刺されたりして、死んでね、例えば修行の生が非常に短くなるとしたら、それは大変なマイナスですよね。だからここで、変な話だけど、皆さんにも許可しますからね。これは、どうしようもない場合ですよ。過剰防衛は駄目だけど。過剰防衛は駄目だけど、皆さんが例えばほんとにどうしようもなく、襲われそうになったりとか、あるいは他人の場合でもいいよ。誰かがもう、ちょっと狂ったような人に襲われて殺されそうだと。あるいは女性の場合、犯されそうだとかね。そういう場合に助けに入って、相手を殴ってかまいません。あるいは、できる人は締め技で締めてもかまわないし(笑)、

(一同笑)

 投げ飛ばしてもかまわない。ね。過剰にならないようにね(笑)。でもこれも一つのケースバイケースですよね。うん。そういう感じで、原則的な教えはあるけども、例えばいろんな危難、危険、あるいは逆に、修行上の、違うタイプの修行をするときとかには、基本的にあった戒律が外されるっていうかな、違うかたちになる場合もあると。で、そういうときはもちろん全く心を柔軟にして、それに没入しなきゃいけない。

 そして後半に書いてあるのは、没入したときは、完全にそこに心を、まあ入れ続けなきゃいけないわけだね。だからここで書いてあるのはつまり、逆に変な観念があって真面目だと、ちょっと失敗しちゃうっていうことだね。失敗しちゃうっていうのは、じゃあさっきの宴の話で言うと、せっかくグルが用意してくれた宴の機会なのに「え、いいのかな、いいのかな? おれ修行者なのにこんな豪華なものを」――で、結局食ってるわけだね(笑)。つまりマイナスの、つまり否定的な意識を持ちながら食べることによって、この供養もあんまり供養にならないし、で、もともとの――別に食わなきゃまた別ですけども、食ってるから(笑)。質素な修行も破れてるし、供養もできてないし、全然駄目だろうっていうことだね。
 そういえば、パトゥル・リンポチェの話でもそういうのがあったね。パトゥル・リンポチェっていうのは、大変慈悲深い人で。もともとチベットっていうのは、ダライ・ラマもラム肉が大好物っていう話だけども、ラムとか、つまり羊肉をたくさん食べるわけだね。で、そうだな、死んでる羊とかはさ、そういうのはいいけども、よくチベットの風習として、大事なお客さんとかが来た場合に、羊を殺してね、出すみたいな風習があるわけだね。で、それをパトゥル・リンポチェはやめさせようとして、普段からそういうのを徹底的に排除していたと。だから自分自身も羊の肉とかを全然食べなかったわけですね。しかしそのパトゥル・リンポチェの偉大なる、尊敬する聖者である師がいて。この人はちょっと狂気の聖者みたいな人だったんだけど。その人がパトゥル・リンポチェと、パトゥル・リンポチェの弟子を招待して、羊を殺し、肉を出したんだね。普通は絶対パトゥル・リンポチェはそんなの受けないんです。「そのようなものは受けられません!」ってなるんだけど。だからそのパトゥル・リンポチェの弟子が「ああ、こんなものを出されてもわが師匠は受けないだろう」って思っててふと見たら、「うまい、うまい」って食ってるわけだね(笑)。「えー!」って思って。それはなぜかというと、それを出してくれた師匠が大変な大聖者であると。つまりこのような聖者によって殺された羊は、もう高い世界に行くしかないと。それを分かってると。で、しかもそのようなグルが出してくれた食事だからね、もうそこはもうパトゥル・リンポチェは、完全にそこでは喜びに浸って「うまい、うまい」って食ってたわけだね。でもその弟子はまだそういうのをよく分かってなかったから、ちょっと食べられなかった。ちょっと「うう……」ってなってたら、その狂気の聖者みたいな人が、「おまえはこんなのも食べられないのか」みたいな感じで、その肉を投げつけたんだね。で、投げつけられて、もうしょうがないから、ちょっと吐きそうになりながら食べたっていう話があって。
 つまりこの弟子は、ちょっと駄目だったんだね。つまりそこにおける素晴らしい宴の意味が分かっていないと。その狂気のグルが用意してくれた素晴らしい供養の宴に完全に没入すればよかったのに、そうじゃなくて「いや、羊を殺して食べるなんて」と。普段はいいんですよ、それで。普段はいいんだけども、そうじゃない、偉大なグルが用意してくれたそのような宴においては、完全に心を変えて没入すべきだったんだけど。
 だから、さっきも言ったように、どっちも駄目ですよね。食わないっていう意味でも駄目だし。食ってるわけだから。で、そこで素晴らしい宴の供養っていうのもできてないから。
 はい、これは一つの例だけどね。だからこういうのはほんとになんていうか、ケースバイケースっていうか、実際にはいろんな場面、つまり皆さんが普段どういう修行、あるいは理想を持ってるか。そして実際にそれが、それを変えていいような、どういう場面が訪れるか、っていうのは人によってまた違うと思うので、ケースバイケースで考えなきゃいけない。
 ただもちろんさ、エゴによって変えちゃ駄目ですよ。エゴによって勝手に、「いや、これは教えを変えていいんだ」ってやったら、それはもちろん、逆に悪業が増し、そして自分の心の方向性がちょっと変になっちゃうから。だからそれはエゴによって教えをねじ曲げてはいけないけども。でも繰り返すけど、例えばグルが用意してくれた場であるとか、あるいは危険な、もうほんとに命に関わるような、あるいは何かほんとに一刻を争う場面においてとかね。そこにおいては、いったい何が正しいのか、どうすることがベストなのかっていうのを常に観念を入れないで考えなきゃいけない。

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする