解説「菩薩の生き方」第二十八回(2)

はい。まず本文の最初で、
「肉を貪るハゲタカによってあちこち引き回されながら、何ゆえに(死者の)身体は、なんらの抵抗も試みないのか。」
と。はい。つまりこの辺は、ここにも書いてあるけども、昔のインド、あるいはチベット等においては、まあ死者、つまり死体を見るのは日常茶飯事であったと。もちろんこれは昔の日本もそうですよね。昔の日本はもちろんわたし知らないけど、例えばまだお侍さんがいるときとかは、普通に、ね、「無礼者!」とか言ってこう(笑)、切ったりしてたかもしれない。あるいは普通に敵討ちとかいうのが認められていたりとか、おそらく今よりは死体を見やすい時代だったかもしれないね。病院とかもあんまりないから。病気になったり、あるいは、ひどいね、事故とかで、ひどい状態になってる死体であるとかを見るチャンスはいっぱいあったかもしれない。でも現代ではなかなか死体を見ることはできない。なんとなくこう飾り立てられたフィクションとしての、ね、例えばドラマとか映画とか漫画では見れるけど、リアリティを持った死者の姿っていうのは、家族が亡くなったとかね、そういう場合以外はなかなかないですよね。
だからもし皆さんが、逆に言うと、そのような、家族を含め、知人友人等の死に直面したときっていうのは、これはある意味で、一般的にいったらそれは悲しい出来事なんだけど、ある意味では祝福と言えるんだね。つまりわれわれがちょっと今生で足りない情報である、「人は必ず死ぬんだよ」と。そして死というのは、なんというか、――死とともに肉体の正体が分かると。
ここで書かれてる、「肉を貪るハゲタカによってあちこち引き回されながら、何ゆえに(死者の)身体は、なんらの抵抗も試みないのか」と。ここの解説で書いてあるのを見ると、「インドのヴァラナシなどでは今でも山積みにされた死体が焼かれていく光景や、その横には死の寸前の人たちが死を待つ小屋などもあります。」――わたし昔、そうですね、インドに何回か行ったわけですけども、一番最初に行ったのは、どれくらいかな、一九九六年とか、多分それくらいだと思うんですが。で、そのころって、まあ、なんていうか、今よりも――その後も何回もインドに行ったわけだけど、まあ最後に行ったの二〇一一年にカイラスでみんなで行ったときですけど、毎年毎年どんどんインドってすごい発展してってるんだね。うん。あるときから、ある年から、まず大ニュースとして、「デリーに牛がいなくなった」(笑)。っていう話があって。で、そのときね、まさに大ニュースだったんです。え!っていうか。つまり逆に言うと、そんだけ牛でいっぱいだった。それまではね。しかしなんかインドの方針で、つまりデリーのね、車道とかに牛がいっぱい我が物顔でいるのが、ちょっと外国には恥ずかしいという感じで、全部牛をどっかに連れてっちゃった。例えばね。あるいは数年後に行ってみると、それまでみんな持ってなかったのに、田舎に行ってもみんな携帯持ってたりね(笑)。すごいスピードで進んでて(笑)、どんどんきれいになってって。で、地下鉄ができたりとか。うん。なんかどんどんインドが、いい悪いじゃないんですけどね、変わっていったんだけど。でも一番最初にわたしが行ったときって、やっぱりインドってまだ混沌とした未開の地みたいな感じで。で、まことしやかにね、「インドってのはほんとに歩いてるだけですぐ死体に出合うんだ」みたいなこといわれてて(笑)。で、さすがそこまではいかなかったけど、でもガンジス川に行ったとき、ヴァーラーナシーとかに行ったときとかに、確かに人間なのか牛なのかよく分かんないような死体がよく流れてくるんだね、普通に。で、もちろん今でもそうだけど、まあここに書いてあるように、有名な火葬場に行くと、死体が山積みにされてて、なんというか岸のところに死体が普通に置かれてたりすると。で、もうすぐ死にそうな人たちが死を待つ家みたいなところで、ほんとにね、最後の日々を送ってたりすると。
で、そういうのが日常茶飯事なんで、確かにインドにいると――現代ではちょっと変わってきたかもしれないけども――まだ、死というのが身近に感じられるし、そして死体というものが、当たり前なんだけども、ただの物にすぎないというのがよく分かる。
で、ここに書いてるように、チベットの場合は鳥葬の伝統があるんですよね。鳥葬。つまり、現代でもやってるかは知らないけども、少なくとも近代までは普通にやっていた。つまり死者の体を、焼くんでもなくて埋めるんでもなくて、鳥に食わすと。ね(笑)。うん。つまり、ハゲタカとかいっぱいやって来る場所にわざと置いて、あるいは食べやすいようにちゃんと切ってあげるとかいうんだね。うん。死体をですよ。死体をこう腕とかちゃんと切って、鳥にばらまくと。
これはさ、なんというか、日本の仏教とかってちょっと日本独特の感じがあるからさ、ある意味ちょっと、本来の仏教プラス、ちょっと中国的な儒教的なのが混ざってたり、あるいは日本の神道的なのが混ざってたり、あるいは日本人のメンタリティなりちょっと情緒的なところもすごくあるからさ。うん。仏様とかいって死者とか死体を大事にしたりするところがあるけど、チベットはそういう意味ではすごくドライですよね。もう、物なんです、死んだら(笑)。物だから、「はい、じゃああのハゲタカにやろう」と。ね(笑)。
で、これにはでもほんとはいくつかの狙いもあって、一つはもちろん、布施です。つまりハゲタカへの布施です。うん。つまり死んだその魂が、自分が使ってきた肉体を、最後はハゲタカに食べさせると。それによって、まあ徳を積むっていうのが一つだね。で、もう一つは、これは観念的な話なんだけど、ハゲタカは食べると飛んでくじゃないですか。うん。つまりの肉体を高いところに持っていくと。で、それによって高い世界に生まれ変わりますようにと。まあ実際にはそれで高い世界に行くことはあり得ないけどね(笑)。観念的な話なんだけど。で、まあそういう願いも込めて、ハゲタカとかに食わすんだけど。
で、もう一回言うけども、その役割をやる人たちは、ほんとにドライに、うん、「ああ、誰々さんが亡くなって……」とかじゃなくて、もう牛とか豚の死体みたいに「はい、はい、はい」ってこうやって、「はい、はい、はい」みたいな(笑)、こういう感じでやると。でもこれ、逆に言うと、もう一回言うけども、現代のわれわれは、すべてがきれいに整えられ、そして都合の悪いことは全部ブラックボックスっていうか見えないところに押し込められてると。うん。何度も言うけども、苦しむ病人、あるいは醜い死体、こういったものは、われわれは普通に生きてるとあまり見かけることはない。全部病院に押し込められ、あるいは見えない場所に押し込められ。だからわれわれは、まるでこの世が非常にきれいで、そして整っていて、苦しみも少ないような感じがしてるけども。もちろん精神的な苦しみとかはもちろんいっぱいあるけども、でも、なんというかな、ベーシックな、この人間の体の持ってる汚さとか、あるいはけがれであるとか、あるいはもちろん死という恐怖であるとか、病気であるとか、そういったものをほんとはわれわれはもっともっとリアルに見つめなきゃいけない。
はい。で、ちょっと話を戻すけども、お釈迦様も、ここに書いてるように――皆さん知ってると思うけど、お釈迦様が一番最初に修行に入った動機っていうのも変だけど、きっかけは――王子様だったわけだけど、王子様だから、お父さんの策略もあって、何も苦しいことを経験させられずに育てられるわけだけど。でもあるとき、初めて老人を見たと。あるいは病人を見たと、あるいは死人、死体を見たと。で、それによって、この世には、つまり生きていれば必ず老いていくと。あるいは病にかかると、最後は死ぬんだと。それを悟りましたと。そして一番最後に、出家修行者っていうか、偉大なる、まあ聖者に出会うんだね。で、その聖者と話をして、つまりその前の経験も含めて、この世は必ず皆老いていくと。そして病にかかると。そして死ぬと。そしてその間も多くの苦しみに満ちてると。で、このような苦悩に満ちて、ねえ、意味もなく死んでいかなきゃいけないこの世界をなんとかして救わなきゃいけない。そのためには自分がまず悟らなきゃいけないんだと。その生き方をその修行者に聞いて、お釈迦様は「自分もそのようになろう」と、「みんなを救うために悟りを得よう」と。そのきっかけになったわけだけども。
だから仏教においても、もちろんヨーガとかヒンドゥー教もそうなんですけどね、特にこの仏教のスタートはまさにこの、肉体の無常性、あるいは肉体の実体のなさっていうかな、これに対する考察から始まっていくんだね。
