解説「菩薩の生き方」第二十五回(5)

はい、そして、このあとにもちょっと具体的な指示がいくつか続いて面白いですよね。まず、「いつも無益にまなざしをうろつかせてはならない」と。つまりきょろきょろすんなと。それはここに書いてあるように、特に現代においては、ね、いろんな情報がもう街にあふれてるから、きょろきょろするなっていう意味でもあるし、それから、まあ、いわゆる掉挙の人ね。掉挙タイプ、つまりヴァータタイプの人っていうのは結構きょろきょろするよね。まあ、さらに言うと、きょろきょろだけじゃなくて、落ち着かない人がいますよね。それはちょっとやはり改善した方がいい。落ち着かないっていうのはさ、例えば修行してても、なんか修行始めたら、もう三分ぐらいで立ち上がってなんか違うことやりだすと。で、また座ったと思ったら、五分ぐらいで立ち上がって誰かとしゃべってると。で、また座ったと思ったら五分ぐらいしたらなんか取りに行くと。ね(笑)。こういう忙しい人いますよね。あるいは、ね、ほんとに、こういう勉強会とかでもそうだけども、あるいは修行やってるときも、なんかもう意味なくきょろきょろしてると。これはまあヴァータタイプ。これは非常に、なんていうかな、意識が散漫となり、せっかく修行してるのになかなか精神の統一ができなくなるから、だからまあ、そういうタイプの人はそれを直すようにしてください。つまり日常から意識を散漫にさせないと。実際に。あんまりきょろきょろしないと。あるいは無駄な、なんていうかな――別にもちろんサットヴァ的にね、やることをパパパパッとやると。これは素晴らしいよ。これで忙しいんだったらいいですよ。あの人はいつも、ほんとに稲妻のように動き回ってると。で、やるべきことをパパパパッとやってしまうと。これはオッケーなんだけど、そうじゃなくて意味なく、まあラジャスであると。あるいはヴァータであると。あるいは、いつもきょろきょろしたり、あるいは――これは言葉もそうだけどね。もちろん法友同士、素晴らしい、あるいはユーモアのある楽しい会話をするのはそれはいいけども、じゃなくてほんとに無駄なことをずーっとしゃべってるとかね。こういったものはすべてヴァータ、無駄な心の散漫さから来るので、それはやめると。
そしてここでは、視線を下方に固定することを書いてあるけど、まあこれは、原始仏教とかの一つのやり方ですね。でもここにも書いてあるように、修行のやり方によっていろいろ変わってくるので、別に下方じゃなくてもいいです。どっちかっていうと、クンダリニーヨーガとか、あるいはまあバクティヨーガとかもそうだけども――の場合は、上の方に意識を向けると。これを重要視するので、下を見るというよりは――まあ仏教の「下を見る」っていうのはさ、実際はいろんな意味もあるんですけどね。例えば虫を踏まないようにするとかね。だからそういう意味で下を見るのはいいかもしれないけども、どっちかっていうと意識は常に上の方にと上げなきゃいけないので。そうするとね、自然にちょっと視線とかもだんだん上になってくるね。あと、そうだな、これはケースバイケースだけども、特に自分がちょっと、今、気が下がってるとか、あるいはちょっと心が暗くなってるとか、そういうときは特にね、まあ、すごく上を見る必要はないけども、若干上を見た方がいいね。若干上っていうのは例えば、瞑想してるときもそうだし、普段も、ちょっとこう視線を上に向けると。そうするとね、ちょっと意識が上に向きます。逆に言うと、強烈にグワーッてエネルギーが上がるとさ、実際に目がグーッと上に行くんですね。この反応を逆利用して、意識的に視線をちょっと上に向けると――あまりにもギョロッとする必要はないよ。もういつもこうやってさ――「ああ、どうしたんですか?」みたいにやってたら(笑)、「ちょっとあの人おかしいぞ」と。「ちょっとあそこのヨーガ教室は変だ」と(笑)、
(一同笑)
――思われちゃうから、だからそこまでやる必要はないけども、まあ自分の癖としてね、ちょっと伏し目がちになりがちな人は、もちろん正面でもいいけども、ちょっと目線を上げると。でもここで言いたいのは別に目線を上げる下げるではなくて、固定すると。つまりきょろきょろしないっていうことだね。もちろん心の中で一心に、さっき言った、グルや仏陀を思い続け、あるいは心の中で詞章を唱えたりマントラを唱えたり、あるいは聖なる思索を続けるでもかまわない。この場合もきょろきょろしないよね。この場合もその一点に心が集中されてたら、なんていうかな、自然に目の前のものを目は映し出すだけになり、あまりいろんなものに目は向かないはずです。
はい。そして、「人と行き会ったら挨拶すべし」と。はい。これはこのままですね。これもだからここに書いてあるように、大乗仏教的であると。しかしここにも書いてあるように、原始仏教においても、仏典とかを見ると、よく、もちろん法友同士はそうですけども、法友じゃなくても、別の修行してる修行者とかでも、よく行き会ったらお釈迦様とか弟子たちが、例えば「親愛なる友よ」とか、そういう、なんというかな、お互いに敬うような挨拶をしてるシーンがよく出てくる。はい。この辺はまあ、面白いっていうか、まあ、面白いですよね。
『入菩提行論』ってちょっとそういうところあるよね。つまりちょっと――このあともいろいろ出てくると思うけど、たまにこういう具体的な指示が出てくる。例えば、なんだっけ、「食事のときに足をぶらつかせるな」とかね(笑)。いや、ぶらつかせないだろうけど(笑)、もしそういう状況になっても――もしかするとぶらつかせる人いるかもしれないね。床に座ってるときはないけども、椅子で食事してるときはちょっとぶらつかせる人がいるかもしれない。それはやめなさいと。ね。面白い具体的な指示がある。ここもだから、「人と会ったら挨拶しなさい」と。つまりブスッとしてるんじゃなくて、にこやかな、慈愛を込めた挨拶をしましょうと。これが一つのシャーンティデーヴァの指針としてある。
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