解説「菩薩の生き方」第二十五回(3)

はい。で、あと後半のところは、これもね、何回か言ってるけども、
「人は皆、自己を評価されたい、非難されたくない、理解してほしい、と考えるわけですが、実際は人は無責任に他者を非難することが多く、また誤解や無理解に満ちているのがこの人間世界です。」
と。
はい。つまり、みんな無智であると。もちろん自分も含め、完全に覚醒していない者はみんな無智であると。だから理解されるって不可能なんですね。つまり一般にいわれてる「理解されてる」っていうのは、実際には理解されてるわけではない。「こう思ってほしい」っていう、あるいは「このような表現を自分に対してしてほしい」っていう、そのとおりの表現をただ相手がしてるだけです。それで自己満足してるだけです。「ああ、わたしは理解された」と。「ああ、わたしは心がつながった」と。まあ、もちろん一時的にというか表面的にもちろん心が通じ合う場合は当然あるかもしれないけど、でもそれもほんとの意味の理解じゃないよね。ほんとに理解してたら、その相手、仏陀ですよ(笑)。
前にも言ったけどさ、わたし昔、瞑想しててさ――これ、言葉だけ言うとあんまり通じないかもしれないけど、ある種の、悟りじゃないけど気付きに達したことがあってね。それは、ここに書いてあるようなのとも似てるんだけど――誰もわたしも理解していないと。で、それは不可能であると。なぜかというと、わたしの正体は真我だから。ね。ちょっと極論に聞こえるかもしれないけど。つまり「あの人は理解してくれてる」「この人理解してくれない」――これはどっちも理解してません。うん。つまり繰り返すけど、この「理解してくれてる」っていうのも実は錯覚です。ただ自分が望んだ答えをしてくれただけかもしれない。実際は別に理解してないかもしれない。あるいは仮に理解してたとしてもね、それも、「自分のこの部分を気付いてほしい」っていうのに気付いただけです。でもそれ、ほんとの自分じゃないから、その部分もね。その部分さえもほんとじゃない。じゃあどの部分がほんとなんだっていったら、これもいつも言ってるように、玉ねぎの皮みたいに、「これもほんとじゃない、これもほんとじゃない」と。最後に残るのは真我であると。つまり、「おお!」って、会ったときにね、「おお、おまえ真我じゃん!」ってね(笑)、「おれ、おまえのことよくわかってるよ、真我だろ」みたいな(笑)。こういう人がいたら、理解してくれてる(笑)。でも理解っていうよりもさ、つまりその人が、つまり真我を悟ってなきゃいけないからね。つまり、自分をほんとに理解してくれてる人は、真我を悟った人っていうことになる。
これは極論に聞こえるかもしれないけど、そうなんだね。つまり――だから別の言い方をすると、だからあんまり人の評価とかを気にする必要がない。みんな間違ってるから(笑)。で、間違いの度合いが違うだけです。「あいつはおれの表面しか見てない!」と。で、次の人は二番目の層しか見てない。もっと理解してくれてると思ってる人は三番目の層しか見てない。でも一も二も三も皮ですから。ね。玉ねぎの皮――玉ねぎの一番外側の皮はもちろんあんまり食べられないけども、その中の部分っていうのは、一枚目も二枚目も三枚目もあんまり大差はないですよね。だからあんまり人の評価とかに揺れなくなる。あるいは人から誤解されるとか理解されるとかいうことに対して、あまり、なんていうかな、心が動かなくなる。
もちろん、だからといってニヒリスティックに、「世界においておれは孤独なんだ」と、「誰も理解してくれなくていい」っていうんじゃない。つまり、わかると思うけども、第一段階で、土台として、恭敬の心――つまり、わたしにはグルがいると。仏陀がいると。神がいらっしゃると。ね。A君だったら、わたしにはドゥルガーがいると。ね。こういう感覚ね。これによって、そこだけに――で、繰り返すけど、その前段階に恭敬があるから、そのグルとか仏陀とか神への思いはさ、もちろん人間的な思いじゃ駄目ですよ。つまり完全なる信頼と、当たり前ですけども、一点の間違いもけがれもない、完全なる全智であるっていう信を持つと。そのお方がわたしを常に見ていらっしゃると。つまりそれは、自分さえも気付かない奥の奥まで見てると。で、それに対しても無頓着になれっていうんじゃない。それに対しては、ちょっと変な言い方だけど、ちょうど子供が親にいいところを見せるように、いいところを見せたいっていう気持ちがあってかまわない。つまり、そのようなグルや神や仏陀に対しては、自分の最高のところを見せたいと。あるいはそれをもって供養したいと。自分の全力の努力をもって、グルや神や仏陀に供養したいと。
あるいはちょっと誤解を恐れずに言えば、良く思われたいと。つまりこの意味での「良く思われたい」は、必要っていうか正しい「良く思われたい」です。ほかの人に良く思われたいって思っても、それは打算的な世界になるけども、グルとか神とか仏陀に良く思われたいと。でもグルとか神とか仏陀はさ、表面的な打算的な感じでは良く思ってくれないからさ。例えばグルに、ね、賄賂を贈ったって駄目だよね(笑)。ちょっと良く思われたいので賄賂を贈ろうかと。それは駄目ですよね。まあ賄賂っていうか、もちろんお布施とか供物は素晴らしいけども、ちょっとずるい気持ちで何か裏から手を回すとか、そんなのはもちろん通用しないと。ただただその人の純粋な供養、帰依、奉仕、あるいは努力、こういったものを喜ばれると。よってそこを努力し、で、「さあ、わたしはグルの意にかなっただろうか?」と。「神や仏陀やグルは喜ばれてるだろうか?」と。ここにのみ精神を注ぐと。
じゃなくて一般の場合の、「あの人喜んでくれたかな?」とかね――まあ、もちろんさ、慈悲っていう意味ではいいよ。「みんなを救いたいんだ」と。「あの人は幸せだろうか?」と。これは素晴らしいけども、じゃなくてエゴっていう意味で、「わたしのことを誰か誤解してないか」とかね、「わたしのことをみんな良く思ってくれてるだろか」と。これは全く無駄な心の使い方だっていうことだね。
繰り返すけど、それは不可能だから。みんなが無智であると。よってわれわれが心を向けるべきところは、無智でなく全智であると。全智なる神であり仏陀でありグルであると。
もちろんそのご意思として衆生救済っていうのがあるから、四無量心ね、四無量心の目を持って衆生を見るのはもちろん大事ですけども。でもそこには、わかると思うけど、自分がどうこうって入ってないよね。だからまあ四無量心の最後は「捨」――自分はどうでもいいっていう教えが入ってるわけだけど。つまり自分がこう思ってもらいたいとか、こう思われなかったから苦しいとか、そんなのは一切入らないと。ただただグルにのみ、神にのみ心を合わせると。
まあ一般の言葉でも、西郷隆盛の言葉で「人ではなく天を相手にせよ」ってあるよね。まあ西郷隆盛はもちろん修行者じゃないけども。でもそれくらいの気高い気持ちね。うん。
繰り返すけど、ここで「人を相手にするな」っていうのは、別に冷たく言ってるわけじゃなくて、自分の中の反応としてね。つまり自分が、人を幸せにしたい――この気持は持ち続けなきゃいけないけども、自分が人に期待してはいけない。人に期待っていうか、そうだね、自分のエゴが満たされることを周りの人に期待してはいけない。じゃなくて、ひたすら与え続けると。そして自分が庇護を求める、あるいは良く思われたいと思える相手は、グルや仏陀や菩薩方だけであると。そして、まとめるけども、その良く思われるっていうのは、表面的な演技は通用しないから。だから本質的に良くなるしかない。本質的に成長するしかないと。あるいは真摯に努力するしかない、ということだね。
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