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解説「菩薩の生き方」第二十五回(2)

【本文】

 「もろもろのブッダと菩薩方は、いたるところを妨げなく照覧なさり、一切は彼らの現前にある。そして私も常に彼らの前に立っている」
と、かように瞑想し、慙愧(ざんき)と恭敬とおそれを伴い、(自制して)あれよ。かくすれば、ブッダの念は、一瞬一瞬、彼に生ずるであろう。

 正念が心の門に守護のために立つときは、正智が到来する。そして得られた正智は再び去らない。

【解説】

 ここは非常に重要というか、実際に使えるテクニックです。
 これはどういうことかというと、まずブッダや菩薩方への強い信を持ちます。そしてブッダというのは全智を持っているわけですから、常に全世界のあらゆることを妨げなくごらんになっているのです。ということはもちろん、私自身も常にブッダや菩薩方に「見られている」といえます。
 もし実際に、目の前にブッダがいたらどうしますか? とてもブッダの前で、悪業を犯したりはできないでしょう。しかしブッダは、こちら側が認識できなくても、実は常に我々を見ているわけです。だから二十四時間、悪業を犯すことはできないのです。さらにブッダ方は、目に見える行ないだけではなく、我々の心の中まで常に見通していますから、偽善的な行為も通用しません。常に今自分のできる最高の心の状態を保ち続けるしかないのです。
 もっと言えば、先ほどの教えも応用して、現実の自分の師匠も完全な全智を持ち、常に自分のことを見ている、と考えるなら、よりメリットは大きいでしょう。
 チベット仏教の教えでは、「もし仮に師が〈自分は解脱していない〉と考えていたとしても、弟子は師を、解脱したブッダとして見なければならない」などとも説かれています。頭の固い人はここに矛盾を感じるかもしれませんが、実際はここに何の矛盾もありません。そのように見るなら、最も大きな恩恵があるでしょう。
 ブッダや、菩薩や、自分の実際の師が、常に自分の行動や心の状態を監視している。――そのようにリアルに真剣に考えるのです。そうしたらもう、一瞬たりとも気が抜けませんね。一瞬たりとも、真理から心を外すことはできません。――つまりそれこそが「正しい念が保たれている」状態なのです。

 このようにして正しい念が心の門に生じたならば、その正しい念に基づいて、常に自分自身で自分の身・口・意の行ないをチェックする正智の働きも生ずることになるでしょう。

 ブッダや師の全智を信じ、彼らが常に自己を見ていると考える
 ↓
 常にブッダや師に見られているので、常に正しい思いを持ち続けようとする(正念)
 ↓
 常に正しい思いを保てているかどうか、正智による自己チェックを常にするようになる
 ↓
 それにより、より正念は確固としたものになっていく

 このような好循環が生じるわけです。

 もっと言えば、このような観想ができるなら、その人は周りの人の一時的な評価や非難などにも惑わされなくなります。
 人は皆、自己を評価されたい、非難されたくない、理解してほしい、と考えるわけですが、実際は人は無責任に他者を非難することが多く、また誤解や無理解に満ちているのがこの人間世界です。
しかし上記のような考え方ができるなら、
「世界中すべての人に誤解され、非難され、理解されなくても、仏陀や自分の師がわかってくれればそれでいい」
と考えるようになります。
 もちろん、自分の今の心の状態や修行段階によって、ブッダや師に対して恥ずかしい行ないや思考をしてしまうこともたびたびあるでしょう。しかしそのたびに反省し、少なくともブッダや師に対しては、心の中で最高に誠実になり、いかに彼らに対して恥ずかしくない思考をするか、恥ずかしくない生き方をするか、ということを常に考えるのです。関係のない第三者が、いろいろ自分を非難したり、無理解な態度をとっても、全くそれは関係ないのです。それらに振り回される必要はないのです。ただただ、ブッダや師に恥ずかしくない思考と生き方をしようとだけ考えるのです。

 皆さんもぜひ、ブッダに、あるいは神に、あるいは実際の師がいる人は師に、常に見られていると考えてください。行動から心の奥まで見られていると。そのように真剣に考えるなら、正念と正智はたやすく生じ、そして持続させ続けることができるでしょう。

 はい。まあ、これはこの間も出た話でもありますけども、この内容は書いてあるとおりなんでね、とてもわかりやすいと思いますが。この間もちょっと出ましたけど、まずこれはさ、当たり前だけど第一段階で、さっきも言ったような、つまり恭敬の心ね。つまり仏陀や師や、あるいは菩薩方に対する恭敬の心がなきゃまず駄目ですよ。つまり、見られてるって考える以前に、目の前にいてもだらだらすると。目の前にいても念正智できないと。これはもう最悪である。だからもちろんまずは、もし仮に、もちろん自分の師や、あるいは仏陀、菩薩方が目の前にいらっしゃったら、もうその前では絶対恥ずかしいことはできないと。つまり、理想どおりの自分を全力で――もちろんさ、繰り返すけど、できないものはしょうがないよ。つまり限界がまだあって、なんていうかな、ちょっと、やはり悪い心が出てしまうとか、あるいは理想どおりやりたいんだけどもどうしてもこういうふうになってしまうとか、それはまだしょうがない部分がある。つまり現在の自分のそれが最高の努力をしてる結果だという場合はね。しかし少なくともその最高の努力はしなきゃいけない。最高の自分、理想の自分になりきる努力を、師や仏陀や菩薩の前では当然し続けなきゃいけない。
 はい、これが大前提です。その大前提のもとに、ここに書いてあるように、仏陀や菩薩や師というのは全智であると。つまり一切を、この瞬間もご覧になっていらっしゃると。当然自分のことも見てるんだと。この感覚ね。
 これはもちろん、なんていうかな、教義的な理解をするんじゃなくて、信じるわけだね、ほんとにね。もうまさに子供のようにです。だから、いつも言うように、ラトゥみたいなああいう信仰が最高なんです。ラトゥみたいな信仰が最高っていうのはさ、つまり皆さんももうラトゥのイメージ根付いてるだろうから、想像してみてください。ラトゥだったらさ、師のラーマクリシュナとかにこの教えを聞いたらさ、もう超信じちゃうよ、もう(笑)。「え、いつも見てるんですね!」みたいな感じ。いつもグル・ラーマクリシュナや、あるいはカーリー女神や――ラトゥのイシュタはラーマだっけ?――ラーマ様が見てるんだ!って、もう本気で思うと。つまり子供がお母さんにそう言われてもう本気で信じちゃったみたいに。「ああ、そうだ、いつも見てるんだ」と。この感覚ね。
 A君とかも、いつもドゥルガーに見守られてるっていうことをすごく信じてる。ね。これはとても素晴らしい。そういう子供みたいな感覚で、常にわたしは自分の愛する神、あるいはグル、あるいは菩薩方――あるいはもっと言えばね、何回か言ってるけど、みんなと縁のある、例えば高い世界の神々、あるいは救済者たち、こういった存在から常に皆さんは見られてます。見られてるっていうのは、つまり見守られてるといってもいいし、あるいは、ね、皆さんの素晴らしい法友たちが、高い世界で皆さんを応援しながら見てるかもしれない。そのようなことをほんとにリアルに考えるんだね。過去世の素晴らしい法友たちが今、自分を応援する気持ちで見てると。あるいはもちろんグルや仏陀方は常に自分のすべてをご覧になってると。あるいは菩薩方もそうであると。
 つまり、ある意味緊張感を二十四時間保ち続ける。で、その前では、ここに書いてあるように、現実的な動作とか言葉だけではなく、心までも当然見られてるから、心も――もちろん、身において、言葉において正しい行為を保ち続けるのは当たり前ですけども、心においても、つまり偽善は通用しないと。一瞬たりとも理想から自分を離すことはできないんだと。あるいはさっき言った、まだ駄目な部分があったとしても、当然努力はしなきゃいけないよね。で、この努力をほんとにしてるのかどうか、これも当然見られてるから。つまりどれだけ誠実に君は努力してるんだと。これも見られてると。よってそれを常に、繰り返すけど、信じる。つまりこれはただの教義として教えとして「そうしなきゃいけないんですね」っていう話じゃなくて、信じると。
 これは繰り返すけどね、つまり、ここにも書いてたかもしれないけど、つまりこういうのっていうのは別に教条的な、つまり「こういうふうに言われてるから、皆さん、じゃあ、これ学びましょうね」みたいな教科書的な教えではなくて、コツなんです、コツ。皆さんがほんとに利益あるかたちで教えを自分のものにできる一つのコツを言ってるんだね。これを皆さんがほんとに実践っていうかな、身に付けられれば、すごい力になる。
 当たり前の話なんだけどね。こういった教えっていうのはさ、この教えだけじゃなくて、いろいろ実際はある。カイラスで提供してるいろんな教えっていうのは、もちろん宝の山です。宝の山だけども、その一個一個をどれだけ真剣に受け止めて自分のものにするかで全然違ってくる。繰り返すけど、この教えもまさに宝物のようなものです。皆さんが真剣にこれを受け入れ、つまり繰り返すけど、ほんとに二十四時間、「そう考えなきゃいけない」じゃなくて、リアルな事実として、グルや仏陀や神々や菩薩方がわたしを見ているんだと。励ましているんだと。あるいは導いてくださってるんだと。その感覚を忘れないと。で、それに対して、繰り返すけどね、義務的に「ああ、見られてる」という――つまりさ、「見られてる体【てい】で」じゃないんですよ。見られてるっていう体でちゃんとやりましょう、じゃないんですよ。本気で信じるんですよ。一応見られてるっていうことにしましょうか、じゃないですよ。ほんとに見られてるんだという信によって、そして恭敬、つまり敬う気持ちによって、その前では決して悪しき態度は取れないと。
 いつも言ってるようにさ、もちろん完成者じゃない限りは、誰でも良いカルマと悪いカルマを持っています。皆さんの中にも当然、聖者、あるいは修行者として菩薩としてバクタとしての素晴らしいデータと、それから、そうじゃない、凡夫、あるいは地獄の住人、あるいは魔的な、さまざまなけがれた心の働き、カルマがある。両方あるんだね。当然修行において、その悪しきものをどんどん浄化していき、良いデータ、良い要素をどんどん増やしていかなきゃいけないんだけど。それを常にキープし続けるのが念正智といってもいいんですけども。皆さんがもし、そのような心が甘い状態だと、つまり縁によって、因が――それを因縁というわけですけども、縁によって悪い因がパッと出てくると。で、それを抑える装置がないと、あるいは努力がないと、そこから無駄な自分の悪いカルマの連鎖が始まり、で、いつの間にか膨大な――心がですよ――膨大な苦しみや、魔や、あるいは邪悪な考えでいっぱいになると。あるいはそれがもっと進めば実際の行動や言葉までもどんどん悪しきものに変わってしまうと。これはまさに念正智ができてないんだね。
 例えばそういう人がいたとして、「あ、こいつはなんてカルマが悪いんだ!」じゃないんです。カルマの悪さはみんなとそんな変わらなかったかもしれない。念正智してなかったからです。ね。だからほっといたからどんどん悪いのが出て、それが、ね、悪い連鎖によってどんどん増大しただけであると。
 しかし、繰り返すけど、しっかりと、これは事実として、リアリティ、リアルな事実として、常にグルや仏陀や菩薩方が見ていらっしゃるっていうことを認識し、それに対して恥ずかしくない努力、心の持ち方を、二十四時間、持続させなきゃいけない。この思いに至ることによって、そのような、自分の中に眠ってる悪しき心の連鎖、カルマの連鎖を食い止めることができる。そして逆に、自分の中の良い聖なる連鎖を引っ張り出すことができると。
 この連鎖――聖なる連鎖が引っ張り出されて、これが、こっちの方が好循環によってどんどん増大していったら、これはもう楽です。つまり自然にその人は聖なる流れに入ったっていうことになる。もちろんそこでも油断をしちゃいけないよ。油断してるとまたちょっとずつ悪しき連鎖が始まりだすから、油断しちゃいけないんだけども、でも少なくとも、以前に比べたらその人は、自然にっていうか、あまり努力なくその理想の実践、聖なる実践ができるようになると。これは素晴らしいね。
 はい。で、その一つの、繰り返すけど、テクニックじゃなくてコツみたいなものだね。コツみたいなものとして、常にグルや仏陀の現前を信じると。これは大変な宝物であり、皆さんを引き上げる素晴らしい教えとなるね。
 だからまあ、バクティヨーガでいうところのスマラナにもつながるんだけどね。だからスマラナっていうのは、実際に現前を信じるかどうかは別にして、二十四時間グルや神を、まずはイメージし続けると。実際にいらっしゃると信じるかどうかは別にして、とにかくイメージし続けると。これをまず第一としてやったらいいかもしれないね。でも最初は、なんとなく、つまりアニメのように、映像のようにいる感じで、で、やることはひどいっていうのもあるかもしれないけど(笑)。でもほんとにずーっと思い続けてたらさ、やっぱり、なんていうの、もちろん誠実な気持ちがあればだけど、イメージとはいえ、ちょっと悪いことできなくなるよね。皆さんどうですか? わたしはやっぱり真面目だから、そういうところがある。真面目だからっていうのはさ――自分で真面目っていうのもあれだけど(笑)、皆さん例えば神の絵とかね、グルの写真でもいいけど、神の絵とか仏陀の絵とかの前であんまりひどいことできないでしょ? うん。そういうのってありますよね。で、同様に、イメージにおいて、常に頭から、心から、グルや仏陀、神が離れないとしたら、やっぱりその前でちょっとけがれた意識っていうのは持ちづらいと。
 あるいはよくやらせるように、心臓に、「はい、じゃあ自分の神やグルをイメージしましょう」と。「常に心臓にグルや神が住んでらっしゃる」と。そうほんとに考えることができたらさ、やっぱりこの心臓イコール心、つまりコーザルとつながってるわけだけども、心というイメージがあるから、やっぱりグルがいらっしゃる、神がいらっしゃる心をけがすことはできないっていう考えに至ると。この純粋な恭敬の思い、これがその人を救うんだね。
 だからそれが最初の「恭敬を持つ者は幸せである」っていうのにつながるけども。やっぱりスタートはこの恭敬ですね。つまり信があり、そして敬う気持ちがあり、そして帰依する気持ちがあり、これがすべてのスタートであり、根本であり、柱となる。それをもとに、今言った、二十四時間グルや神が見ていらっしゃるんだと。この思いをリアルに持ち続けられたら、皆さんの修行は一気に進む。つまり、この限られた人生の瞬間瞬間、一瞬一瞬を無駄にすることなく使うことができるということですね。

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