解説「菩薩の生き方」第二十五回(1)

2018年8月1日
解説「菩薩の生き方」第二十五回
はい。じゃあ今日の勉強会に入りますが――その前にちょっと、Mさんが今、どんどん修行時間を延ばすっていう修行を続けてるわけですけど、ちょっと前に、一日十時間の修行目標を達成しましたと。で、そのあとどうするかと。つまり四時間ぐらいから始めてどんどん延びていって、ついに十時間に達したと。で、これからはコンスタントに十時間をキープするのか、さらに延ばすのかみたいに悩んでて、結局延ばすことにしたみたいな話を前に言ったと思うけども、まあそれ、ついこの間のことかと思ってたら、いつの間にかもう十一時間二十五分ぐらいまでに延びてて(笑)。で、Mさんのすごいところは、もちろん、そうやって――つまり、前にも言ったけども、四時間ちょっとから始まって、コンスタントに毎月延ばしてるわけですね。つまりそれが、みんなも、例えばたまに十一時間やるとかはできるかもしれないけど、仕事もしながら毎日しっかり加行もやり、プラスアルファでトータル、毎月ね、一日平均十一時間っていうのはなかなか大変であると。しかもそれを、加行も日々、落としたことがないっていうかな。
もちろんさ、別のタイプで、加行できない日がいっぱいあって、それをまあ、たまったやつをあとでしっかりやるっていう、それはそれでとても素晴らしいけども、そうじゃなくて、毎日日々しっかりやると。これはこれでとても素晴らしいね。
で、継続した精進というか、それはまあ非常に――つまり、繰り返すけど、それが、ちょっと今月は頑張ったとかじゃなくて、何年間もそれを続けてるっていうのは、これは非常に称賛に値すると思うね。
で、特に最近、新しい人たちも増えてきて、で、新しい人も、ね、加行をすぐにもらって始める、頑張ってる人もいっぱいいるわけですけども、これは人によるけど、当然多くの場合、カイラスの加行っていうのは最初やっぱりちょっとびっくりするみたいですね。びっくりするっていうのは、まあ考えてたよりちょっと多いと。ね(笑)。あるいはちょっとハードであるって最初は思うみたいだね。でもなんとかそれを頑張ってこなすこと自体が修行になっていくわけだけど。
もちろん、修行者はいろんなタイプがあるし、あるいは、そうだな、環境の違いとかもあるからさ、全員が全員Mさんみたいな感じで極限的に修行時間を延ばしていくべきだっていうわけでもないけども、しかしまあ、与えられた加行等の基本的な修行はやはり日々しっかり、甘えずに、できる限りの努力はすべきだね。
はい。最近新しく加行を始めた人とかもいるので、じゃあ今日はちょっとMさんに、みんなへのアドバイスを少し話してもらいましょう(笑)。
(M)……始めたきっかけが、やっぱり加行にムラがあると。できるときとできないときがあったりして。それを反省して、表を作って、数値を入れていったところから始めて。で、加行ができるようになったときに、まあもう少し延ばしてみようかなと。で、先生にまあそれを報告して、で、励ましの言葉を頂いて。で、やりくりしていくうちに、いつの間にかこんな時間になってしまったんですけども。
あ、アドバイスですよね(笑)。えー……とにかく自分ができることを全力で取り組む、ただそれだけです、はい。
それだけです(笑)。何か、ちょっとつらくなったときとか、できなそうなときに、なんとかそれを乗り越える秘訣とか何かあります?
(M)ああ、いくつかそういう武器を――多分それぞれあると思うんですけど。例えばこれを読むと鼓舞される本とか、それをちょっとストックして、ここぞというときはそれを使わせていただいています。
先月すごい暑かったけど、大丈夫でしたか?――インタビューしてるみたいだけど(笑)。
(一同笑)
(M)半ばぐらいに、なかなか延びずに、すごく危機感を感じて、ちょっと自分を精神的にあえて追い詰めて、で、集中力をすごく高めて、がむしゃらにやっていった時期がありました。なんとかそのまま月末になりました(笑)。
(一同拍手)
繰り返すけどさ、一般的に見ても――一般的にってつまりカイラス以外でも、例えばチベット仏教、あるいはテーラワーダ、あるいはヨーガ系で、日本でいろいろ修行してる人たちがいるけどね、こういう感じで自主的に、仕事しながら毎日十一時間以上修行して、さらに延ばしていくとかね、これはまあとても、ある意味超人的であると。で、繰り返すけど、お釈迦様の弟子でも例えばいろんなタイプがいて。だから「なんとか第一」とかいうわけですけど。だから繰り返すけど、みんながみんなMさんみたいなタイプにならなきゃいけないっていうわけじゃないんだけど。それぞれのいろいろタイプがあって、あるいは持って生まれた使命や、あるいは素養があるからね。でもやっぱりね、どのタイプであっても、やっぱり超人になってほしいね。超人ね。ちょっとあの人は違うと。だからどんなことでもいいです。もちろん修行そのものでも素晴らしいし、その修行のいろんな要素があるよね。挙げればきりがないけどね。智慧にしろ慈愛にしろ、精進にしろ忍辱にしろ、どの分野でもいい。あるいはもちろんその複数の分野において、「ちょっとあの人は桁が違う」と。別の駄目なところを持っててもいいよ(笑)。「あの人はこういうところでまだちょっと良くない要素もあるけども、でもここにおいては、ちょっとあの人は桁外れである」と。それぐらいのやっぱり――もちろんそれは今日明日でできるもんじゃないけどね、皆さんが一生かけて修行に邁進した一つの結果としてね、まあ、「あの人はまさに〇〇第一である」と、「あの部分においてはもう、ちょっと人を超えた超人的な存在である」といわれるぐらいに、自分を磨き上げたらいいと思うね。
【本文】
師の教えによって、師を畏敬して恭敬をささげる者は幸福である。師匠のもとに住することから、正念は彼らにたやすく発生する。
【解説】
ヨーガや密教においては、時にはブッダや神に対する以上に、現実の師への帰依心を非常に重要視します。
そして密教ほどではないにせよ、大乗仏教においても、師の存在というのが非常に重要視されていることがわかります。
もともとヨーガの伝統においては、弟子は師と共に暮らし、師の身の回りの世話等で奉仕をしながら、教えを受けていくというスタイルがありました。それによって弟子は、単なる言葉による教えのみならず、様々な状況における考え方や、立ち居振る舞いなどを学ぶことができたのです。あるいは常に師に自分の考え方や行動の仕方等をチェックされることにより、自然に自分の汚れたカルマが浄化されていくともいえるでしょう。
実際に一緒に住まないまでも、師を持ち、師を尊敬し、帰依し、たびたび一緒に接して教えを受けるなら、上記に近い結果を得ることができるでしょう。逆に言えば、人は自分に対して甘いので、そのように自分に指示や教えや良い影響を与えてくれる師が近くにおらず、一人で修行するような状態だと、なかなか自己を律するのは難しいということですね。
はい。まずここで説かれてるのはこの解説とおりですけども、まず、なんていうかな、表面的っていったら変ですけども、一般的な話がある。一般的な話が、ここに書かれてる、人は当然自分に甘く、そして、なんていうかな、すぐにエゴによって道を間違えやすいと。よって、肉体を持った師の存在がまず不可欠である。
もちろんその人がほんとに、つまりラーマクリシュナのように、最高に純粋で、そしてもちろん神との縁というか絆があり――この状態だったら、肉体を持った師がいなくても大丈夫かもしれない。つまり純粋にただただ神に導かれる。しかし普通はまあ、そうならないわけだね。純粋だと思ってても、いろんなエゴが入り込んで、自分の気付かぬうちに道を逸らされると。あるいは、師がいない、あるいは自分をそのように管理する者がいないということで、非常に甘くなると。よって――昔のインドの伝統ではね、師のもとに住むっていうのがあったわけだけど。別に一緒に住まないでもいいんですけど、例えば定期的に、こういう勉強会なりなんなりで顔を合わせるとか、あるいは、現代はすごく便利ですよね、ネットとかもあるから。つまり物理的にちょっと遠くにいたとしても、つながってる感がありますよね。昔だと、ちょっと離れてると、ね、つまり通信手段も交通手段も発達してないから大変だったけど、現代ではまあ、メール、電話、あるいはこういったネット通信等によって、師がいる場合、身近にその存在を感じられると。あるいは双方向の意志の疎通が図れると。これはとてもいいことです。
つまり、変な話、ある意味管理されてるような、あるいは監視されてるような感じで、自分を引き締めることができる。つまり師がいるんだからと。師が見てるんだからと。だから恥ずかしい思いはできないと。あるいはまあ具体的に、ある場合は当然指示が来るかもしれない。「こんなことはしては駄目である」と。あるいは「こういうふうにしなさい」とかね。それによって弟子は、ね、身を正し――ここの言葉を使うと、「正念は彼らにたやすく発生する」と。
繰り返すけど、正念、つまり正しい心を持ち続ける、思いを持ち続けることは、例えば皆さん荒野に放り出され、もしくは荒野じゃなくてもいいけど、どこかで、ね、師がいない状況で一人で修行しろと言われたら、なかなか大変ですよね。しかし、繰り返すけど、尊敬する、あるいは帰依する師がもしいて、一緒に住まないまでも、常につながってる状態があるとしたら、当然その師に帰依しようと、あるいは恥ずかしくないようにしようと。あるいはまあ別パターンでは、ちょっと怖いっていうパターンもあるかもしれない。ちょっと、ね、見つかったらどうしよう――それでもかまわない。つまりそれによって自分を律することができると。
はい。で、これは表面的な話です。この『菩薩の生き方』は、もちろんだいぶ昔にわたしが書き下ろしたわけですけども、そのころはまだカイラスも初期のころであるし、それからこの『入菩提行論』自体がもちろん、大乗仏教の聖典なので、どちらかというと誰にでもわかるような教えが中心になってるわけだね。しかし実際には、密教的な話になってくると、もうちょっと深い話になってくる。
ここの部分も、もうちょっと深く言うと、つまり「師の教えによって、師を畏敬して恭敬をささげる者は幸福である」ってあるね。この「師の教えによって」っていうのは、まず当然、師に出会い、その師の教えを学ぶことができる、あるいはその教え――この「師の教えによって」の部分をまず取り出して説明すると、これも簡潔に言うけどね、いつも言ってるけど、一般的な教え――一般的な教えっていうのは例えば仏典であるとか、いわゆる『バガヴァッド・ギーター』等の聖典であるとかね、それはいつも言うけど、最大公約数的な教えです。つまり誰が手に取っても素晴らしいと。しかし最大公約数だから、ピンポイントではない。あるいは、ある人にはすごく合うかもしれないけども、ある人にはそんなでもない場合もあると。これが最大公約数ね。で、師の教えっていうのはつまり、この師っていう存在が出てきた段階で、この師っていうのは、つまり師弟関係っていうのは、ある意味一対一の関係になる。つまりここで「師の教え」っていってるのは、もちろん師が実際にしゃべった教えかもしれない。あるいは師がみつくろった聖典かもしれない。つまり、「あなたにはこの教えとこの教えとこの教えがいいですよ」と。あるいは「カイラスではこの教えとこの教えを重要視しましょう」と。で、「そういう本を出しましょう」とか。つまりそれは、師によって違ってくるよね。
このように――つまりもう一回言うけども、一般的な、つまりダルマ、誰でも手に取ることができるダルマとの出合い、これももちろん素晴らしいんだけど、そうじゃなくて、実際の師と出会い、そして師が与えてくれる教えを受けることができると。これは最高に素晴らしい。まあだから加行もそうですよね。加行――加行はもちろん皆さんわかると思うけど、わたしの場合、例えば今、もう数十人ぐらい加行やってるかもしれないけど、毎回毎回、一人一人作ってますからね。一人一人っていうのは、「今月はみんなこれでいいか」とかじゃなくて(笑)、そういう大量生産コピーじゃなくてね。ただ、流れはあるけどね。流れは――だいたい最近朝はこれが入ってるとか、それはあるけどね。でも細かいところは全員違います。それはその人たちのカルマを見て、あるいは現在の進み具合や課題等を見て、そのときそのときで変えてると。こういうのはとても、もちろん幸せなわけですね。あるいはもちろん、こういった勉強会もそうだけども、そのときそのときで与えられる示唆、あるいは教え、これは、なんていうかな、最大公約数ではなくて、ピンポイントに絞られた教えだから、もし素直にそれを受け、それに心を没入させて全力で行なうならば、それは素晴らしい果報を皆さんにもたらすでしょうと。だからこれは、師の教えを受けられることができる幸せだね。
はい、そして、その次の「師を畏敬して恭敬をささげる者は幸福である」ってあるけど、つまりこれは、そうだな、一番いい一つの話としては、ソギャル・リンポチェの書いた話で――ちょっと正確じゃないけどね、大まかに言うと、「師への敬信がすべてだ」っていう話がある。敬信ね。「敬い」「信じる」と書いて敬信ね。つまり、敬い、そしてまあ帰依し、信じる気持ちね。その「師への敬信こそがすべてである」と。その人の心が、師で、つまりグルでいっぱいになり、そしてグルへの敬信、それ以外には何もないような状態になったとき、その人のすべての存在ね、身・口・意の一切は、自然に――つまり例えばその人がいろんな修行を行なう、あるいは日々教えの実践をしていく、それによってその人の存在は自然に仏陀の境地、あるいは魂の覚醒へと導かれていくんだと。この鍵は、繰り返すけど、表面的な修行のテクニックとかじゃなくて、師への敬信なんだと。つまりグルっていう存在を持って、それに対する、他に何も入れないような敬信ね。敬い、信じ、帰依する心。これでいっぱいになったとき、その人の日々の修行、あるいは日々の実践は初めて大きな意味を持ち、自然に覚醒に導かれると。
で、そういう話はいっぱいあるよね。つまり、ほんとに心が――もちろんさ、チベット系の修行者っていうのは多くはそういった帰依の教えをすごく重要視してるから、多くの人が、もちろん師への帰依っていうのは強く持ってるわけだけど、でもその中でも、それが非常に高まって強烈な帰依の思いが湧いたときに、すべてを悟ったとかね。あるいは師の悟りがそっくり自分に移ってきたとかね、よくそういうのがある。
つまり繰り返すけど、ここで言いたいのは――さっき言ったことっていうのはもちろん一般的な真実なんですけど。つまり、師がいるからわれわれは、肉体を持った師がいるから身を律することができるし云々っていうのはそのとおりなんだが、より本質的な話としては、われわれがほんとに純粋な敬信を師に向けると。あるいはここの言葉でいうと、「師を畏敬して恭敬をささげる」と。これをほんとに極めていったならば、それだけで、皆さんの修行、あるいは修行人生っていうものは、まあ、より研ぎ澄まされた、そして崇高な領域に運ばれていくんだっていうことですね。
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