解説「菩薩の生き方」第二十九回(3)

あ、ちょっと抜かしちゃったけど、「世の人々の親友として、はじめに人に会釈の言葉を述べよ」っていうところの説明としては、まあ、ここに書いてあるとおりですけどね。つまり、もちろんまだそこまで心が追いつかない場合はかたちから入ってかまわないんだけど、心の問題として、まあ、これはいつも言うように――この親友っていう言葉はわたしはとてもいいと思うね。いいと思うっていうのは、何度か言っているけど、よくチベット仏教とかではここで、お母さん、母を持ち出すんですね。これはこれでいいんですけど――何を言いたいかっていうと、みんなを平等に愛しましょうと。その平等に愛してる基準値が必要ですよね。誰と同じように愛するのか、それをチベット仏教では母っていってる。母、お母さんと同じようにみんなを見ましょうと。でもお母さんとの関係って人によるよね(笑)。あと、特に、そうだな、年取ってくるとさ、お母さんのありがたみとか感謝とか出てきていいかもしれないけど、若いうちはいろいろ反発心もあったりとか、あるいはちょっとうまくいっていない関係性もあったりとか、いろいろありますよね。で、ちょっと、「くそー、お母さん……」とか思っているときに、全員お母さんって見ちゃうと、「みんなおれのこと分かってくれない!」とか(笑)、よく分からない感じになっちゃうから。だからお母さんがぴったりはまる人はお母さんでいいんだけど、でもそれよりは親友ってとてもいいと思いますね。親友。
まあ、もちろん、親友がいない人もいるかもしれない。でもそれは想像でかまわない。もしわたしに親友がいたら。つまり、この親友っていうのはさ、何度か言ってるけど、一つのパターンとしてはね、本当に心からの親友で、もうこいつのためだったら――これはもちろんお母さんが子供に思う気持ちとも似ているわけだけども――こいつのためだったらおれはどんなに損してもかまわないと。ほかの人にはちょっとできないかもしれないけど、こいつのためだったら、何か自分にすごい犠牲が来たとしてもね、こいつがなんか助かったり幸せになるんだったら、かまわないんだと。それくらいの思いを持った親友ってことだね。つまりただ単純に愛着し合ってベタベタしてる親友じゃなくて、本当に相手に心を開き、かつ、相手のためだったら、ね、もちろんなんでもできるかどうかは分からないけど、でもある程度っていうかな、自分の犠牲も全く自分の喜びであるぐらいの親友。
もちろんこれは、繰り返すけど、そういう人が現実的に皆さんにいるかどうかはどっちでもいいです。いたらそれをイメージしたらいいんだけど、いなかったとしても――つまりそういう理想的な親友って普通あんまりいないからね。あんまりいないから、つまり漫画とかに出てくるようなね、そういう親友ね。いなくても全く問題がない。じゃなくて、いると仮定して、それが全員なんだって思いね。これは一つのイメージ的な修行です。全員にそのイメージを重ね合わせるんだね。あの人もわたしの親友であると。
つまり親友っていうのはさ、観念です、ある意味ではね。観念。例えば本当にそういう親友がいたとしてね、その親友が、そうだな、ちょっと自分を傷付けるようなことを言っちゃったとしてね、まあ許しますよね。あるいは許す以前に、あまり気にならないかもしれない。おまえからそういうこと言われても別に、おまえに心開いているし、おまえの良さを分かっているからって、なんの問題もなかったりする。でもそうじゃない人に、あるいは自分が嫌いだと思っている人に言われたら、もうすごい激怒するかもしれない。でもそれは観念だよね。つまり、Aという人に対しては親友っていう一つの観念を当てはめているだけであって、Bという人には普通、Cという人には嫌いな人っていう観念を当てはめるだけであって、その三人が言った言葉は同じだったりする。ね。言った相手に対する観念によって、こっちの反応が違うだけであって。
こういう話は前からしているけど、例えば恋人とかも同じなんだけどさ、「わたしはあなたを永遠に愛します」とか、普通よく人が言ったりするけどね、これも同じで、じゃあそこでいうあなたってなんなんだと。これは前にも言ったので端折って簡単に言うけどさ、わたし昔、そういうことをよく考えてたけどね。例えばAさん――これは例えば、まあ異性が一番分かりやすいからね、異性のAさんをすごく愛していて好きであると。異性のBさん、この人は嫌いであると。それは顔も性格も合わないと。本当にもう会うだけでけんかばかりする、嫌な人であると。AさんBさんね。当然魂という意味で言ったら、つまりジーヴァっていう意味で言ったら、Aさんの魂がここにいて、Bさんの魂がここにいて、そういう肉体や性格や関係性を持っていると。いいですか? でもこの二人が死にました。で、例えばAさんのことは好きだったから、「Aさん、あなたとは生まれ変わっても一緒になりましょう」とか、そういう愛の言葉を言ってたかもしれない。二人が死にました。はい、AさんとBさん、生まれ変わりました。魂はもちろんAさんの魂、Bさんの魂なんだけど、カルマってその生で変わってくるからさ。いいですか?――Aさんが、憎きBさんと、ほぼ同じ顔、性格で生まれてきました。Bさんは逆に、自分が好きだった、過去世のAさんの顔と性格で生まれてきたと。でもわたしは過去世で、Aさんを永遠に愛すると言っていた。はい、Aさんとまた来世で会った。大嫌いだったBさんの顔と性格です。これで本当にAさん愛せますか?っていう問題。
もう一回言うよ――大嫌いだったBさんの顔と性格、あるいはその他全部ほとんど同じ。でも魂はAさん。愛せますかと。愛せるとしたら、もともとBさんでもいいじゃんって(笑)。意味分かる(笑)? 魂関係あんの?っていう話があってね。うん。意味分かるよね? つまりそれだけ、なんていうか、実体のないものに対してわれわれは実体があるように感じて、「これはわたし」「この人がわたしにこう言ってきたらこういう喜びである」と。「この人が言ってきたら苦しみである」みたいなイメージ、観念を持っているだけなんだね。
だったらそれを逆に利用すればいい。つまり、まあ、これは努力が必要ですけども、最愛の――これは恋人ってなるといろんな恋愛感情とかも入っちゃうから、じゃなくて親友がいいです。最愛の親友であると。全員がそうであると。このイメージを持つ。はい。それはだからあらゆる点において、そのイメージはメリットをもたらす。つまりさっき言ったように、その人になんかやられたって親友にやられただけだから、そんなに苦しくないかもしれない。あるいはその人が――その人がというか全員ですけどね、誰か困っていたとしたら、親友が困っているっていう気持ちで心から助けてあげられるかもしれない。はい。それと同じように、親友と会ったら、当然心からの――もちろん親友のいろんな関係性にもよるだろうけど、オーソドックスなパターンとしては、やはり心からの笑顔が出るだろうと。
それを――つまり菩薩というのは一切衆生の親友であると。そういう気持ちで、誰と会っても心からの笑顔で、「はじめに人に会釈の言葉を述べよ」って書いてあるね。この辺もなんというか、日本的な感じもする。
皆さんも知っていると思うけど、ヴィヴェーカーナンダとか、ヨーガーナンダもそうですけども、特にヴィヴェーカーナンダが日本に初めて来たときに、大絶賛しているわけだね。で、なんというか、絶賛の手紙をインドの法友とかにいっぱい送ったりしている。それについて昔、メダサーナンダさんがまとめた本を出したことがあったけども。それはいろんな面があったと思うんだけど、その一つはやはりこの――これは現代でもそうですけどね。現代でもよくさ、アメリカ、あるいは欧米のさ、芸能人とか、あるいはスポーツ選手とかが来日したり、あるいは日本に住み着いたりしたときに「おお、驚きだよ」と(笑)。
(一同笑)
「日本人の親切さ、丁寧さ、あるいは礼儀正しさ。これはもう、どの国にも真似のできないものだよ」とかね(笑)、言ったりするよね。これは一つの日本人が持っている美徳で、おそらくヴィヴェーカーナンダもその部分にもかなり驚いたんだと思う。つまりそれはインド人も仏教徒たちも一つの理想としていたところで。つまり、日本人の場合そういう社会的な、小さいころからの習性みたいなのがあるけども、まあでも根付いちゃってる部分はありますよね。普通に、もちろんそれは地域とかにもよるだろうけど、人と会ったらにこやかに「こんにちは」と。あるいはいろんな場面場面で、丁寧に、相手のためを思って振る舞いましょうとかね。もちろんその中で「いや、ちょっとあいつは礼儀がなってない」とかね、あるいはなかなか人に迷惑ばっかりかけているとか、そんな人はもちろんいっぱいいるだろうけど、でもベーシックにはそういう素養が日本にはあるような気がするね。
だから別に、初めに人と会ったら親友のように笑顔で挨拶しましょうと。え、なんでこんなこと、こんな当たり前のことを、なんか学校の道徳で習うような当たり前のことを入菩提行論に書いてあるのかな?っていうのはあるかもしれないけど、まあインドですからね(笑)。もっとやはりわれわれよりも粗野であると。ラジャスであると。インドだけじゃないけどね。なんていうか、悪い意味でマイペースであると。人のことなんか知ったこっちゃないっていう部分もかなりあると。だからその辺はこういう教えによって矯正されなきゃいけなかったのかもしれない。だからわれわれはこの部分をそこまで、まあこだわって気にする必要はないかもしれないけど、でもこれも一つの鋳型みたいなものだから、人と会ったらにこやかに挨拶をしましょうと。
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