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解説「菩薩の生き方」第三十回(1)

2019年6月12日

解説「菩薩の生き方」第三十回

 はい、今日は『菩薩の生き方』ですね。いつも言うように『菩薩の生き方』は『入菩提行論』を、わたしが書き下ろしのかたちで解説しているものなので、まあ、その勉強会ですので、解説のさらに解説というかね、より掘り下げて、あるいは復習していく勉強会になりますね。

【本文】

 他人の指導に巧みな人、乞われないのに恩恵を与える人――かような人々の言葉を、頭をたれて遵奉(じゅんぽう)せよ。常に、すべての者の弟子であれよ。

【解説】

 まず、もし、巧みに我々を修行の進歩に導いてくれる人や、乞われなくても人々に様々な意味での恩恵を与えるような人に出会ったら、謙虚になって、頭をたれてその人の言葉を聴き、実行せよ、とありますね。
 そして次に、「すべての者の弟子であれよ」という言葉があります。私はこの言葉が好きですね。この宇宙にいるすべての人々、魂は、自分の師匠なんだと。だから他者との交流において、この人から何を学べるか、この人とのやり取りにおいて、何を自分は学べるか、あるいは、どういう意味で自分の修行が進むか、ということを考えなければなりません。
 たとえば自分を馬鹿にする人が現われたら、この人は私の慢心を試しているんだ、慢心に気づかせてくれる師だ、と考えるべきです。
 あるいはいろいろな苦しみを与える人が現われても、それはちょうどマルパがミラレーパにしたように、私の悪いカルマを落としてくれる、すばらしい師だと考えればいいですね。
 あるいは逆に、何かすばらしい行為を行なったり、自分にないすばらしい部分を持っている人がいたら、それももちろん、自分の手本となってくれる師だ、と考えればいいわけですね。
 つまりその相手が実際どういう人で、どんなことを考えているかは関係なく、こちら側の心一つで、あらゆる人との関係を、自分の修行を進めるために活用することができるのです。だから「すべての者の弟子」なのです。そして実際に精神的にも、謙虚になって、そのような思いで、他者を尊重しなくてはなりません。

 はい。これはまず、この間の何かの勉強会でも出たけども、例えば密教とかバクティヨーガだけではなくて、基本的にヨーガの世界あるいは仏教の世界でも、当然まず第一に、師、師匠ね、グルですね、師への帰依ってのは非常に、非常にっていうかな、最も重要なものとされると。それはもちろんそうなんだけど、それはそれとして、もう一つの重要な要素としてここに書いてある、「すべての者の弟子であれよ」と。で、この書き方は、つまりここでまず「他人の指導に巧みな人、乞われないのに恩恵を与える人――かような人々の言葉を、頭をたれて遵奉せよ」ってまず書いてあって、そのあとに「常に、すべての者の弟子であれよ」って書いてあるけど、これはおそらく段階的な、なんていうかな、訓練だね。
 何を言いたいかっていうと、まずここで言っている理想は、この後者、つまりすべての者の弟子でありなさいと。これはここに書いてあるけども、われわれは謙虚な心となって――ここに書いてあるのはさ、つまり、「すべての者の弟子であれ」って別に、みんなの言うことを聞けってわけではないよ。当たり前だけど。ちょうど、そうだな、教学している人は、ダッタートレーヤの教えとかありますよね。ダッタートレーヤっていうのは、すべて――っていうのはすべての人だけじゃなくて動物とか虫とか、あるいは自然のさまざまな働きとか、あらゆるものからいろいろ学ぶと。そういうかたで、別にみんなの言うことを聞けっていうわけではなくて、われわれが接している他者っていうのは、言い方を換えれば神がわれわれに何かを気付かせるために、あるいは学ばせるために送り込まれたものであると。その意味でわれわれはみんなから学べるんだと。別の言い方をすれば、あらゆるものの弟子となれるんだと。
 しかし一般的にはわれわれの中に、他者への排他的な心、あるいは阿修羅的なね、闘争心・競争心・批判心、いろいろ入ってくると。そうするとクリアな目で、どのように彼から学べばいいのか、どのように彼の弟子となり衆生を師と考えればいいのかっていうのが分からなくなる。分からなくなるっていうよりも、まあ分かんなくなるし、抵抗が出てそんなことできなくなると。だからまず最初に、やりやすいっていうよりもまず正当的なところからいくと、ここに書いているように、「他人の指導に巧みな人、乞われないのに恩恵を与える人」――つまりこういう人はまずやりやすいですよね。いろいろな意味で、われわれを修行、あるいは魂の向上に向かわせてくれる人。繰り返すけど、もちろん師がいる場合は、師がその第一の――第一のっていうか絶対的な帰依の対象となるわけだけど。それとは別に、例えば皆さんだったら、法友、あるいは先輩の法友であるとか、あるいは先輩でなくても、いろいろと学び、気付かせてくれる人とか、そういう人がいたならば、謙虚になって頭を垂れると。あるいは「乞われないのに恩恵を与える人」。これは実際にその人が修行しているしてないは別として、つまりそのような、つまりその人が意識的に菩薩道とかを歩んでいるかどうかは別にして、つまり心の問題として、なんの利害関係もないのに、あるいは誰からも求められていなかったとしても、常に人々に恩恵を与えるような人がいると。そのような人はもちろん当然尊敬の対象であると同時に、なんというかな、われわれが頭を垂れる対象であると。
 もう一回言うけども、まずわれわれの中に阿修羅的心とか闘争的・地獄的な心、嫌悪・排他心・排他的な心とかがあると、まずそういう人でも認められません。ね。明らかに私心なく人のために生きている人とか、あるいは実際には自分に対して多くの恩恵ある言葉を言ってくれたりとかアドバイスをしてくれる人がいたとしても、自分の中にブロックがあって、そういう人さえ認められないと。「おれは認めねえぞ」と。こういう感じになっちゃう。だからまずはわれわれは心を柔軟にして、そういう人に対しては心をまず開いて、「それは素晴らしいことなんじゃないか」と。もちろんそれは自分と関係なくてもですよ。自分と関係なくてもっていうのは、もしここに、非常に広い心で、利害関係なく人々のために生きているような人がもしいるとしたら、「ああ、彼は素晴らしい」と。「彼に頭を垂れましょう」と。ここから始まるわけだね。で、これは分かりやすいっていうか、誰でも、まあ誰でもっていうか、ちょっと頑張ればやりやすい。で、それをスタートにして、それを入り口として、どんどん広げていくと。
 今言ったのは、誰が見ても良い人。誰が見ても、なんというかな、恩恵を与えてくれる人だから、その人を、なんというかな、遵奉する、あるいは頭を垂れる、尊敬する、これは誰でもできると。で、そこから広げていって、ここから先はもちろん智慧が必要なわけだけど、つまりここにあるいろんな、今読んだいろんなパターンで――これは前から言っているように、宮本武蔵か吉川英治か忘れたけど、「我以外皆我が師」と。これと同じ発想ですね。わたし以外、この世界の人々はみんな我が師匠であると。これはさっき言ったダッタートレーヤの教えでもあるし、あるいはここの言い方で言うと、「全ての者の弟子であれよ」と。
 これも、今、智慧が必要って言ったけど、実際には智慧よりも、心の柔軟性が必要ですね、実際にはそんなに智慧はいりません。ちょっと考えればできることであって。だってここで書いていることって、そんなに難しいことじゃないでしょ? 例えば自分をばかにしてくれる人が現われたら、「あ、この人は自分の慢心を試している」、あるいは自分の慢心に気付かせてくれ――だってさ、ばかにされて「くそー!」ってなるとしたら、それは慢心があるってことだからね(笑)。明らかに。そこに気付かせてくれた、あるいはそれを打ち砕いてくれる、あるいは試してくれている。これはさ、そんなに難しい例題じゃないよね。これを「いや、そこに気付かなかった」って人がいるとしたら、無智か、もしくは自己をごまかしている人です。そんなの普通気付く。気付くけど、でもなかなかできないわけだね。自分をばかにしてくれる人が現われて、「あ、これは神の使いである」と。「わたしはプライドが高いからこういうふうにそれを落としてくれている、もしくはそれに気付かせてくれてるんだ。」――それを素直に思えたら、もう心から感謝。つまり表面的なものじゃなくて、心から本当にありがとうと。もう危ないところだったと。あなたが来てくれなかったらわたしはプライドで魔境になっているところだったと。あなたがばかにしてくれたおかげで、つまりみんなから褒められてたとしてね、みんなから褒められるけど、この人だけばかにしてきたと。「ああ、あなたは天使のような人だ」と。「あなたのおかげでわたしはハッとしました」と。心が素直に柔軟だったらこういうふうになれるはずなんだね。しかしなかなかわれわれは心がかたくななので、そういうことに気付けないと。
 だからまず最初のベースの発想として、すべての者の弟子でありなさいと。つまりわれわれが心を開いて、そして智慧を持って見れば、あらゆる人と言ってもいいし、あるいはあらゆる状況と言ってもいいけども、あらゆる状況、あらゆるものは、自分の師匠となり得ると。別の言い方をすれば、自分の師匠や神が、何かを気付かせようとして、もしくはなんらかのかたちで自分の修行を進めようとしてくれてるんだと、こういう発想だね。

 はい。ところで、まあ前にも言ったけど、パトゥル・リンポチェの話で、聞いたことがあると思うけど、パトゥル・リンポチェはこの『入菩提行論』とかを教えるときに、一つか二つの詩だけを教えて、で、それを非常に、まあ今みたいに説明すると。説明したら、それでその日は講義は終わって、二つぐらいで終わって、弟子たちはもう森に入ると。で、その日説明されたその二行くらいの詩をひたすら瞑想すると。つまりそれについて深く考えたり、深く瞑想したりする。そういうやり方をしてたっていうんですね。
 はい。で、それはちょっと現代的には時間がかかり過ぎなので、今日はちょっと短縮的に、数分間くらい瞑想してみましょうね。まずこの今やったテーマね。

「他人の指導に巧みな人、乞われないのに恩恵を与える人――かような人々の言葉を、頭をたれて遵奉せよ。」

 そして、

「常に、すべての者の弟子であれよ。」

と。はい、じゃあ数分間、各自でこれを心の中で深く考えて、少し瞑想してみましょう。

(瞑想)

 はい、じゃあ瞑想終わって、次のところいきましょう。
 

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