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解説「王のための四十のドーハー」第四回(7)

【本文】

鏡を覗く無智な者が
そこに映った映像を、自分の顔だとは気付かぬように
真理を拒む心も同じ
多くの真なきものを頼りとする

 はい。これはまあ、比較的分かりやすいかもしれないね。

鏡を覗く無智な者が 
そこに映った映像を、自分の顔だとは気付かぬように

 これは分かるよね、この例えはね。「鏡を覗く無智な者」っていうのは、つまり、ほんとにちっちゃい子供とか、あと動物とかね、あるいはまあ、知恵遅れの人とかでもそういう人いるかもしれないけど、つまり鏡っていうものをよく分かっていない。
 実際わたしそういう映像を見たことあるけど、猫とかがね、敵だと思って、鏡に映った自分をワーッてこう威嚇したりする。実際そういうことがあるわけだね。まあ、あるいはちっちゃい子供でまだ鏡を知らない者がパッて鏡を見たときに、「わ! 誰かいる!」って感じで恐れたり、あるいは逆に執着したりすることがあるかもしれない。この例えをいってるわけだね。
 つまりこれは、よくいわれるように、仏教的な一つの真理としてね、すべては心の現われですよと。すべては心の鏡ですよと。まあ、さっき言ったこととも通じるけどね。われわれが外界だと思ってる世界っていうのは、実は自分の心にすぎない。だからこれは前から何回か言ってるけど、夢の世界とすごく似てるんだね。夢の世界って全部自分の心じゃないですか。なんていうかな、自分の心以外のものってないでしょ、夢って。だって自分の心の中で起きてることなわけだから。で、それと全く同じなんだね。この世界も夢のようなものであって、この外側に見えるものも全部自分の心から生じた、まあ、幻にすぎない。でもそれを、ちょうど鏡を見て他人だと思ってしまって恐怖したり執着するのと同じように、自分の心の現われであるこの世界を、恐怖したり、執着したり、あるいは否定したり肯定したり、いろんなかたちで苦しんでる、それがわれわれだっていうことですね。

真理を拒む心も同じ 多くの真なきものを頼りとする

 はい、つまり、ほんとにほんとにわれわれに智慧があれば、この世は心の鏡であって、すべてはわたしの心の現われだって分かるわけだけど、じゃなくてわれわれは、それが分からないので――これもさっきから言ってることと同じなわけだけど、いろいろな外側のものに対して、勝手にいろんな概念を付けてね、「この人はこういう人であってこうであって、わたしとの関係はこうであって」とか、物語を勝手につくって、で、それを真実として、あるいは事実として確定させてね、その中で喜んだり苦しんだりしてると。これがわれわれの今の状態だっていうことですね。だからまずわれわれは第一段階で、まあ、これもだからまずは言葉上で「すべては心の現われなんだ」っていうことを理解しなきゃいけない。あるいは「すべては心の鏡なんだ」っていうことだね。
 これはもういろんな勉強会で何度も言ってるので、なんとなくは皆さんはもう分かってると思います。すべては心の鏡だと。心の現われだと。例えば何か嫌な人がいるとしたら、それも自分の心の現われだと。自分の中に同じような部分があるからそれが、外的に見えてるだけにすぎないと。
 これはまあ、何回か言ってるけども、サーラダー――ラーマクリシュナの奥さんのサーラダーの言葉でもね、「他人の欠点を探してはいけない」と。「あなたがもし平安になりたんだったら、他人の欠点を探してはいけない」と。「自分の欠点を探しなさい」と。そして、「この世に他人は誰一人いない」と。「すべてがあなたのものなのだということを覚えなさい」ということを言ってらっしゃる。これはまさに今言ったのとつながる話だね。
 つまり、他人の欠点を探してはいけない。なぜかというと、すべては自分の心の現われにすぎないから。他人というのを仮に設定して、その欠点をつついたり、そこをすごく批判したりするっていうのは、自分の中にけがれを増大させるだけなんだね。これはなんの意味もない、誰のためにもならない。じゃなくて自分の欠点を探すんだね。
 あるいは、いつも言うように、他人に何か欠点が見えるとしたら、それは自分にあるからです。特にその部分が強いからです。そういうのってよくあるよね。わたしもね、人から相談を受けるとよく分かる。例えばいろんな人がわたしに相談をしてくるわけだけど。例えば「あの人のこういうところがちょっと許せない」――こういう話がよくあるわけだね。あるいは「こういうところがちょっと頭にきてしまう」と。でもわたしは例えばそれを聞いて、「え?」っていうときがよくあるんです。「どこが?」と(笑)。「いや、こうじゃないですか」って言われて、「え、そんな……あ、そういうふうにも見えるね」と。つまりその人だけが苦しんでるんだね。その人だけがそういうふうに見えてる。つまり感応してるわけだね。
 いつも言うけども、これもね、わたしの好きなユクテスワの言葉で、「周りにまだ悪を見なければいけないことを嘆きなさい」っていう言葉があるんだね。これは何度も言ってますが、意味は分かるよね? 周りに悪を見なきゃいけないことを嘆けっていうのは、悪がはびこってるのを嘆けっていう意味じゃなくて、悪が見えるっていうことは自分にも悪があるっていうことなんです。つまりものすごい超純粋な人がいたら、周りの悪を認識できません。ね、例えば――これはよく例えとして出す話なんですけど、例えばりんごが二つあってね。小さいりんごと大きなりんごがある。分けなさいって言われたときに例えばわたしとM君がいて、M君が大きなりんごを取ったとするよ。そうするとわたしの中に、「M君、貪り強え!」と(笑)、「意地汚ねえ!」って思いが出るとしたら、わたしが意地汚いんです。それ、意味分かるよね? わたしが意地汚いから、大きな方を取られて「意地汚い」って思っちゃうんです。もしわたしの中に意地汚さ、貪りがゼロだったらどうですか? ただ現象としてM君が大きいのを取ったとしか思わないんです。「どっちを取りますか?」――大きいのを取りました――それだけ。
 例えばね、このりんごの大きさっていうのは、つまり大きい方がいっぱい楽しめるっていうのは概念じゃないですか。じゃあその概念がなかったらどうですか? 例えば、そうですね、まあ右のりんごと左のりんご。ね。これは右ですと。これは左ですと。大きさも味も全く同じですと。で、M君が左を取ったとするよ。で、そこでわたしは怒らないよね。だってそこに優劣の概念がないから。「なに左取ってんの! 左かよ!」とか言わないよね(笑)。

(一同笑)

 だってこれは等価なわけだから。右とか左とかいうことで何か価値を見いだしてはいない。じゃなくて大きなものは、いっぱい食えるっていう価値があって、おれがそっちを食いたいっていう欲望があるから、M君がそれを取るとM君を否定するわけだね。「おまえ貪りが強い!」と。でもわたしの中に全くそれがゼロだったら、「あ、左取ったんですね」と同じような感覚で「あ、大きいの取ったんですね」と。「じゃあ、わたし小さいのですね」と。何もそこにないんだね。「まあ、今日は譲るか」とかいうこともないわけです、何もね(笑)。ただ、ただ普通に、「あ、わたしは小さい方ですね」と。それで終わりなんだね。
 あるいは、慈悲の心っていうかな、それが強かったら、逆の現象が起きます。つまり、相手が大きいのを取ったときに、心からですよ、心から、「おお、良かった!」と。「大きいのを食べてほしかったんだ」と。「ほんとにそれでいいんだ」と。つまり、悔しくて言ってるんじゃないんだよ(笑)。心から、「ああ、大きいの食べてくれてほんと良かった」――これは慈悲がある人ですね。で、慈悲があるかどうかは別にして、執着がない人は、何も思わない。でもこちら側に執着があるから、「M君は意地汚い」っていう思いが出るんだね。
 で、これは全部そうなんです。例えば、「ああ、あの人嫉妬深いよね」って言う人は、その人自身がだいたい嫉妬深いんです。あるいは「ああ、あの人ちょっと嫌悪が強い」とか言う人は、だいたいその人自身が嫌悪が強い。ね。だからそれを自分のバロメーターにすればいい。周りに何が見えますか? 周りのどういうところにカチンときますか? どんな嫌なところが見えますか? それが自分の大きな問題だっていうことに気付かなきゃいけないんだね。で、それがだから、自分が浄化されるにしたがって、周りに見えるその批判点っていうのは少なくなってきます。だからそういう意味でもすべては心の鏡だと。
 だから、もう一回話を戻すけど、周りに何かもし見えたら、それをきっかけとして自分を見なさいと。わたしにそれが何かあるからそう見えるんですよと。「あ! わたしは今あの人のこういうところが気になった」と。「ということは今、おれの心にはこういうけがれがあるんだな」と。「気付かなかったけどあるんだな」と。「これはまずいことだ」と。「だから自分を直そう」って考えればいいんだね。じゃなくて、「あいつはこういう悪いところがある」と。「これをみんなに知らせなきゃいけない」とかね(笑)、こういう心を持っちゃいけないんだね。
 はい、これは一つの例だけど、いろんな意味でこの世は心の鏡ですよと。これはもうほんとに、一つの、これはキーワードです、キーワードね。だから皆さん、これ、言葉だけまず覚えといたらいい。「すべては心の鏡だ」と。で、それを一つキーワードを覚えといて、皆さんが普段、生活の中で、いろんなことに出合うたびに、そのキーワードによってね、まあ、今日説明したことだけではなくて、いろんな意味で「ああ、ほんとにすべては心の鏡なんだな」っていうことに気付けるようになるかもしれない。それはとても大きな進歩だね。
 この世っていうのはほんとにね、われわれは、大きな、なんていうかな、カラクリの中でだまされてるんだね。まさに映画の『マトリックス』みたいなもので、その真実じゃない世界の中に今放り込まれてて、いろんなカラクリでだまされてます。で、そのカラクリから救ってくださる存在がブッダとか菩薩なんだね。そのブッダとか菩薩は、ストレートにわれわれを救うっていうことはしないんだけど、いろいろヒントを投げ掛けてくれるんですね。で、こういった一つ一つの言葉っていうのは、全部そのヒントなんです。だから例えば今言った「すべては心の鏡ですよ」――これはヒントなんです。で、われわれはこの言葉を覚えておいて、いろんな現象に出合うたびにね、その現象の一つ一つっていうのはすべてカラクリなんだけど、そこで「すべては心の鏡だよ」っていう例えばワードをポッと思い出すとね、ストレートには悟れないんだけど、ちょっとヒントによって、「あれ? もしかして、なんかちょっとここ変じゃない?」と。
 ――あのさ、みんな多分見たことないかもしれないけど、昔ちょっとはやった『トゥルーマン・ショー』っていう映画があってね。見たことある人もいるかもしれないけど。この『トゥルーマン・ショー』ってどういう映画かっていうと、これはあり得ない設定なんだけど、ある男がね、赤ちゃんのときからずーっとこうカメラで撮られてて、それが全世界にドキュメンタリードラマとして流されてる。二十四時間ね。で、その子が大きくなってきたら、友達とか家族とかいるわけだけど、全部役者さんなんだね。で、その人はある大きな島に住んでるんだけど、その島の住人全部役者さんで、全部シナリオがある。で、それを本人、主人公の本人だけが知らない。で、その本人の二十四時間が、ずーっともう撮られてて、もうリアルなドラマとして、『トゥルーマン・ショー』っていうドラマとして全世界に放映されてると。で、みんなはそれを見て、まあリアルな人生劇を見て楽しんでる。本人だけが気付かない。ほんとの家族、ほんとの友人だと思ってる。でも、その本人が大人になってきたときに、ちょっとたまに「あれ?」って気付きだすんだね。例えばちょっとセットがずれてたりとか(笑)、あと役者がちょっと間違って登場してたりとか。「あれ? あなたさっきいなかった?」とか。なんかそういうことが起きてくる。で、そこでちょっとずつ、「あれ? なんかおかしいぞ、おかしいぞ」ってほころびが出始めて、だんだん、自分は全部だまされてたっていうことに気付くわけだけど。
 で、この世もそういうのがあるんだね、実はね。実はすべて神が仕掛けた、あるいは別の言い方をすれば魔が仕掛けたカラクリなんだけど、普通は完全にはまって気付かないんだが、こういったブッダの教えとかをヒントにこの世を見てると「あれ?」ってちょっと分かってくる。あれ、なんかおかしいぞと。この世は今までわたしが習ってきたような世界ではなくて、あるカラクリの下に、つじつま合わせで動いてる世界にすぎないんだなっていうのがだんだん分かってくる。ほころびが出てくるんだね。
 だから、もう一回言うけど、こういったワードを一つ覚えておいて、それによっていろんなものを見る訓練をしたらいいね。それによって皆さんの、つまり論理的な世界ではなくて、直接的にこの世の真実を見抜く目みたいなものがだんだん養われていきます。

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