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解説「王のための四十のドーハー」第四回(3)

 はい。こうしてサラハはその女性の弟子になったんだけど、それからこの二人はどうしたかっていうと、火葬場に住み――火葬場ね。火葬場っていうのは、インドというのはもともと日本みたいなお墓はあまりありません。つまり輪廻転生思想があるから、なんていうかな、遺骨とかをずっと入れといたりはしない。まあ、つまり焼いちゃって、遺灰はガンガーとかに流しちゃうわけだね。で、そのための遺体を焼く場所があるんだね。あるいはそこで、あまり、なんていうかな、身寄りがいなかった人とかね、あるいはいろんな理由によって焼かれなかった遺体もある。そういう遺体はただもう、腐るまで転がってるわけだね。で、それを犬とかが食いに来たりして。で、そういう非常に不吉な場所として火葬場っていうのがある。で、その火葬場にサラハと師匠の女性は一緒に住んで、で、毎日歌ったり踊ったりしてたと(笑)。で、これが噂として広まり、例の王様の耳に入ったわけだね。
 で、王様はもう大変悲しんだわけです。つまりさっきも言ったように、サラハが仏教の師匠の弟子になったと聞いたときも悲しかったんだけど、まあ、でもそれはしょうがないと。ちょっと違う道に行ったんだな、ぐらいだったんだけど、今度はそのサラハが、弓矢作りの女性と住み――あのね、ここで「弓矢作りの女性と住み」っていうのもとてもポイントなんだね。なぜかっていうと、インドっていうのはもともと、さっきから言ってるカースト制があって、で、われわれ日本人にはちょっと理解できないぐらい、例えば職業であるとか、生まれとかの差別がすごく強いわけだね。現代ではもちろんそれはだいぶ薄まってはいるだろうけど、まあ、それでも現代でもそういうのは根強い。で、昔なんていうのはもうそれは、それが正しいこととされてたから、すごくみんなの観念としてあるんだね、強くね。で、その中で弓矢作りの職人っていうのは、すごく低い身分ってされてたんだね。われわれにとってはよく分かんないじゃないですか。何が低くて何が高いのか。で、「弓矢作り、なんで低いの?」って感じだけど、弓矢作り職人――「そんな卑しい職業!」っていうそういう感じなんだね(笑)。なんでだろう?って感じがするんだけど。だから社会観念って怖いよね。うん。ちょっと時代や国が違えば、「え、それがどうしたの?」っていう感じなんだけど、その中にどっぷりはまってると、もうほんとにそれは軽蔑の対象になったりする。あるいは苦しみの対象になったりする。
 で、弓矢作りの職人、そしてその女性の身分、それから女性っていうのも駄目だったんだね。つまりもともと男尊女卑的な傾向が強いから、インドは。特に修行の世界においては、女性っていうのはとても、なんていうか、身分を低く置かれる。だからそういう観念がすごくあったから――あと火葬場ね。火葬場っていうすごく不吉な場所。ね。そういう浄・不浄っていうのをすごく重んじるんだね、インドっていうのはね。つまり、ここは清らかな場所で、ここは不浄な場所で、この人は清らかな人で、この人は不浄な人で、と。で、例えばその不浄とされる職業の人に触れると、もうちゃんとガンガーの水で洗わなきゃいけないとかいうくらいの(笑)、そういうすごい観念があった。で、その観念で言うと、王様からするとね、あの偉大な清らかなサラハが、火葬場で、弓矢作りの女と歌ったり踊ったりしてると(笑)。どうしてしまったんだと(笑)。ものすごい、なんていうかな、悲しみに襲われるわけだね。
 外的に見るとさ、それは何かガチガチの観念にとらわれてたんだなっていうふうに分かるわけだけど、現代のわれわれだってもうガチガチにとらわれてるから。もう気付かないぐらいにとらわれてます、われわれはね。なんていうかな、こうでなければならない、こうなったらそれは大変社会的に恥ずかしいことだとか、あるいはもう顔向けできないとか。実際はそんなことはないんだけど、そういうそのガチガチの観念の中にいる。
 前から言ってますけども、わたし昔、小さいころね、何を思ったか知らないけど、うちのお父さんに――そのころわたし、別に修行とかしてなかったんだけど、もちろん。小学校の低学年のころに、わたし長男だったわけだけど、「わたしは将来、結婚もしないし、家も継がないし、大学にも行きません」ってなぜか親に宣言したんだね(笑)。つまりまあ、なんとなく自分はそれを期待されてるっていう感覚があったのかもしれない。うちは商売やってたから、継いでほしいと。で、長男だから、しっかりいい大学行って、いい結婚してっていう、なんとなくそれを感じてたのかもしれない。で、わたしはそれを「しない」って宣言したんだね。でもうちの親はね、なんかすごく柔軟な親で、「ああ、そうなんだ」と。「あなたの人生だから好きなように生きなさい」って感じだったんだね。
 それはまあ、うちの親は柔軟だったんだけど、この間Mくんが、同じようにね、親に、つまり自分はもう修行一筋で生きると。結婚もしないと。そういうことを親に宣言したんだね。そしたら親が言ったのが――M君も長男なわけだけど、「誰が墓を守るんだ」と(笑)。で、わたし、それを聞いたときに、ちょっとずっこけたっていうか、「え、そこ?」

(一同笑)

 ものすごく親が怒ってるっていうんだね、それでね。最初親が怒ってるって聞いたときに、つまりまあ、子供に愛着があるからね、つまりもう一切そういったね、世俗のことを捨てて修行一筋で行くって――っていうかさ、別にM君わざわざそんなこと言う必要ないのに(笑)、多分M君としては、はっきり親に宣言したかったんだろうね。で、それを聞いて、世俗的な意味でね、「いや、そんな結婚もしないなんて」とかね、そういう気持ちかと思ったら、「墓を誰が守るんだ」と(笑)。

(一同笑)

 それは田舎だからかもしれないけど、まあ、つまりM君の実家のその地域では、それがもうものすごい重要問題みたいだね。墓を守る人がいないと、もう、すごい、なんていうか、恥ずかしいことっていうか。
 で、じゃあM君、妹がいるから、妹がお婿さんもらえばそれでいいじゃんって言ったんだけど、「それじゃ駄目です」って言うんだね(笑)。つまり本家の長男が墓を守らないと、それはもう大変なことだと。いやあ、すごいと思ったけど。つまりそれも一つの観念だね。だから、例えば外国の全然違う風習の人から見たら、「え、なんでそんなんで苦しまなきゃいけないんだ?」ってなる。
 今言ったことってまさに分かりやすいことなんだけど、そこまで分かりやすくないことで、つまりわれわれがもうどっぷり浸かってる観念っていっぱいあるわけだね。で、その中でわれわれはガチガチになってる。で、この王様もその当時のインドの観念でガチガチになってた。で、サラハが非常にその不憫に思えて――不憫っていうかな、まあ、つまり「いったい何をやってるんだ?」と。「もうあいつはおかしくなってしまったんだろうか」と。でもサラハのことを愛してたから、大臣たちをね、サラハのところに調査に行かせたわけだね。いったい何をやってるんだ、あなたは、と。
 で、その王様の大臣たちがサラハのところに行って、サラハと会ったら、サラハはまあ、歌ったり踊ったりしてる。まあ、つまり、なんていうかな、ラーマクリシュナとかもそうだけど、われわれがほんとに高度な悟りに到達すると、かたち上の修行っていうのはあまりいらなくなる。ラーマクリシュナも同じようなことを言ってる。ヒンドゥー教にはね、すごく厳格ないろんなやり方があるんだね。例えば朝と晩、必ずこのマントラを唱えなきゃいけないとか、いろいろ厳格な儀式とかがあるわけだけど、それは、まだ神というね、太陽が昇るまでの話であって、神という太陽が昇ったならば、そのすべては脱落すると。つまり必要なくなると。で、ラーマクリシュナは、そういった厳格なヒンドゥー教の儀式をあんまり守ってなかったんだね。でもそれは、周りの人たちは、「いや、彼にはそれは必要ない」と言って認めてたわけだけど。例えば誰かがラーマクリシュナのために歌を歌う、あるいはラーマクリシュナ自身がいろんな歌を歌うと、それだけでもうサマーディに入ってしまう。なぜかというと、その歌で表現される神への愛、それに、なんていうかな、何度も言うけど、論理的にどうこうとかじゃなくて、心の真髄によって、それに触れたときに、もうそれで十分なんだね。それによって、もうすべてを悟り得るっていうか。で、その境地に達してれば、なんていうかな、もうほんとに、ただ悟りを歌い、あるいは神への愛を歌い、あるいは、体の赴くままに踊り、これだけでも十分だと。ね。楽でいいね(笑)。「さあ、修行だ!」って言って、歌って踊って(笑)。
 でもわれわれはまだそこまではいっていない。だからそこまでいくように頑張ったらいいね(笑)。皆さんがこれから、例えば「はい、蓮華座!」「うわー!」って苦しむと。「はい、ムドラー! もっと止めなきゃいけない!」と。これをひたすらやった果てには、歌って踊って(笑)、サマーディに入れる境地があるわけだから、それを目指して頑張ってもいいかもしれないね(笑)。ね。つまり真髄をつかんだ者にとってはそのように、なんていうかな、自然な振る舞い自体がすべて悟りの表現になってしまうわけだね。
 でもそれを、その王様とか大臣たちは理解できなかった。しかもその火葬場っていう一見不浄なところに――あのね、これはヨーガにしろ仏教にしろ、密教行者が火葬場で修行するっていうのは一つのまあ定番なんだね。多くの行者が火葬場で修行するんです。これはいろんな意味があると思うんだけど、一つはまさにさっきから言ってる、浄・不浄の概念を超えるっていうのはあるね。つまりあまりにも強過ぎる浄・不浄の概念がインドでは強かったから、それを超えるために、あえてその最も不浄といわれる火葬場に行って、そこを住まいとしてそこで修行すると。そういうのは一つあったと思います。
 で、その火葬場でその修行してる――修行してるっていうか歌ったり踊ったりしてるサラハとその師匠の女性のところに大臣がやって来て、で、いろいろ尋ねたら、そこでサラハはまあ、歌を歌うわけだね。で、この歌っていうのはドーハーといって、いわゆる自分の悟りをストレートに表現した歌ですね。で、ここでサラハは、百六十の歌を歌ったといわれています。百六十っていうのはつまり、百六十のフレーズの歌を、大臣たちに歌った。で、それによって大臣たちは悟りを得てしまったんだね。で、そこで大臣たちが帰ってこなくなった。つまりサラハと一緒に歌ったり踊ったりしてる(笑)。
 で、王様は、サラハを呼びに大臣を行かせたのにいつまでたっても大臣が帰ってこないから、いったいどうしたんだと思って、今度は、さっき言った、サラハにあげようと思っていた自分の娘ね、王女様をサラハのもとに送ったわけだね。じゃあ今度はおまえが行ってこいと。で、その王妃様がサラハのところに行ったら、今度はサラハはその彼女に、八十の歌を歌ったっていわれるんだね。八十ね。で、なんでさっき百六十で今度は八十かっていうと、つまりこの王妃というのは、偉大な智慧を持っていたからなんです。つまり、大臣たちよりも智慧が深かったから、半分の八十でオッケーだったんだね。つまり言葉を費やさなくても、半分でオッケーだった。で、その八十の歌を聞いて、この王女様も悟ってしまった。で、同じようにサラハと歌ったり踊ったりし始めた(笑)。
 で、王様は、あれ?王妃様も帰ってこないと。大臣も王女も行ったきり帰ってこないと。いったいどうしたんだと。で、ついに王様自身が探しに行ったわけだね。王様自身が行ったら、今度はサラハは、ここで、今日勉強する四十の歌を歌った。で、これ、分かるよね? つまり、なぜ四十か。つまり王は王女様よりもさらに智慧が高かった。つまりまだ悟ってはいないけど、素質としては素晴らしい智慧を持った王様だったんだね。だから王女様のさらに半分の四十の歌でオッケーだった。で、その四十の歌を聞いて、王様までも悟ってしまった。で、その国の王が、国王が悟ってしまったことによって、その力が国民中に波及して、最終的には国民全員が悟ったといわれる。で、国民全員で、悟りの歌を歌ったり踊ったりしたと。これがサラハの物語だね。
 はい。で、今日勉強するのは、このときサラハが王様に歌った四十の歌が今日のこのテーマだね。で、これは、前に何回かやったんですが、だんだん難しくなっています。最初の方がまだ分かりやすいんだけど、だんだん難しくなってて、まあ、今日もだから、ちょっと表面的にはよく分かんないなって感じがするかもしれませんが、何度も言うけどね、心の智慧を使って、心を開いて、そして柔軟な心で、その本質をつかむようにしたらいいね。

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