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解説「王のための四十のドーハー」第六回(7)

【本文】

幸福にキスすることを熱望し
無智なる者は、それこそが究極であると言う
それは、我が家を離れて女の家の戸口に立ち
彼女に肉欲の喜びの物語を尋ねているようなもの

 はい。これはわれわれの心の本性――さっきも言ったように、われわれにとっての幸福っていうのは一つしかありませんと。それは心の本性に目覚めることです。これ以外に幸福はない。しかし無智な者は、さっき言った、経験に引きずられてできた、さまざまな自分の観念、概念があって、で、勝手に自分で「これが幸福だ」っていう概念をつくり出す。で、ここで「キスする」と表現されてるのは、つまりさっき言った接触ね。つまりわれわれが概念を作り出してその概念を味わうことを、ひたすら熱望してるんです。皆さんが修行する前は、修行に入る前っていうのは、皆さんの人生はほとんどそれで埋められていました。それはね、自分で気付いていようがいまいがそうなんですよ。つまりこれを行動原理っていうんだけど、われわれの行動原理はね、心の中の欲望なんです。百ゼロでそれ以外にないんです。――もう一回言うけど、修行してない場合ですよ。つまり、慈悲とかないんです。あるいは、欲望以外に他の要素もありません。つまりまず欲望があって、百パーセント、欲望を叶えるためだけにわれわれは生きてるんです。
 つまりどういうことかっていうと、「こうなったら幸福なんだ。よってそうなるぞ」と。「いかにしてそうなるか」と。で、これはね、潜在意識の働きだから――そうですね、表層意識が固い人っていうのは、それに気付かない場合が実は多いです。気付かずに無意識のうちに、そのセッティングをするんだね、心がね。自分さえもだまされてるんです。自分さえもだまされながら、結果的にその欲望が叶えられる方向に持っていくんです。潜在意識の非常に巧妙な罠なんだね。
 あるいはもちろん――そうですね、ちょっと心が、ある程度柔軟な人っていうか、あるいは壁が薄い人っていうのは、もろ欲望追求型になります。つまり潜在意識からバーッて出た信号を、普通は覆い隠して、なんていうかな、潜在意識に操られるように生きてるわけだけど、じゃなくてもろに出す人。ね(笑)。「こうなりたいんだ」「あれが欲しいんだ」と。こういう人っていうのは社会ではちょっと迷惑だけど、逆にそういう人の方が実は純粋だったりする。うん。潜在意識そのままで出してるんですね。で、こういうタイプの人ももちろんそうだけども、つまり常に自分の欲望を、「さあ、いかに叶えるか、叶えるか、叶えるか」――こればっかりなんだね。
 あのさ、強くそれが出てきたときって、皆さん理解できるでしょう。例えばさ、そうだな、女性はどうか分かんないけど、男性の場合ね、例えば十代のころの性欲ってすごいじゃないですか。男性のね。まあ、そうじゃない人もいるかもしれないけど(笑)。例えば性欲がバーッて出てきたときに、もう頭の中はそれでいっぱいになるわけです。ね。で、いかにそれを叶えるか。で、例えば学生時代とかさ、叶える方法あんまりないじゃないですか(笑)。だから、少ない方法で、性欲であるとか、あるいは恋愛的なね、思いとかを叶えることをすごく考えてしまう。で、それがちょっと駄目だと分かると、もう次の手を打つっていう感じで(笑)、なんていうか心の中が、「いかにこれを叶えるか。叶えるまではおれは終われない!」みたいなのでいっぱいになるんだね。で、そういう感じで表面にバッて出てるときは分かりやすいんだけど、表面に出てないときも、実は年がら年中そうなんだっていうことなんです。二十四時間われわれは、それを求めてるんです。いかにこのデータを叶えるか、実現化するか、これでわれわれは生きてるんだね。
 はい。そして、「無智なる者は、それこそが究極であると言う」と。つまりそこに、究極のっていうかな、自分の存在意義であるとか、あるいは人生の意味を見いだしてる。
 もう一回言うけど、これは思想じゃないですよ。思想とか頭で考えてることじゃなくて、心の思いです。心の、潜在意識の傾向ですね。

それは、我が家を離れて女の家の戸口に立ち
彼女に肉欲の喜びの物語を尋ねているようなもの

 これはまあ、面白い例えなわけだけど、これは一つの例えとしてね、つまり、すごく――これは前によく出してた例えだけども、最高の、完璧な妻を持つ夫がいるとしてね。もうあらゆる面で完璧な妻。まあ現実的にそういう人がいるか分かんないけど(笑)、例えとしてね、そういう人がいるとして。でもその人が、その自分が置かれてる誰もがうらやむ最高の幸せの状況を理解できず、家を出て、ほかの女の家のところに行くと。で、面白いのは、ここで言ってるのは、そこでその女と関係を持つっていうんじゃなくて、「彼女に肉欲の喜びの物語を尋ねているようなもの」だと。つまり、何を言いたいのかっていうと、この世のものっていうのは心の本性に比べたら、すべて、リアルではないんです。概念なんです。
 皆さん、考えてみてください。頭の中で言葉遊びを皆さんよくするでしょう。「ああ、こうなったらいいな」「ああなったらいいな」「これがこうなってあれがああなって、これ、こうだよな」と。これがこの世界なんです(笑)。リアルじゃないんだね、全然ね。言葉遊び、概念遊びの世界なんです。
 だから、ここら辺は、そうですね、「我が家を離れて女の家の戸口に立ち 彼女に肉欲の喜びの物語を尋ねている」って表現されてるけども、もうちょっと現代的な例えで言うと、今言った、最高の妻を持ってるにもかかわらず、例えばアニメーションとか、あるいはインターネットとか、そういう、ちょっとリアルではないイメージの世界で、それこそ究極の自分の喜びだと思って、そこで遊んでるようなものですね。つまり例えば自分の妻のほんとの、なんていうかな、大切さとか価値に気付いていない。
 それと同様に、無智なる者は、心の本性の本当の価値に気づかずに、リアルではない概念の世界を求めてしまうということですね。

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