解説「王のための四十のドーハー」第六回(4)
はい、そしてそこから、それが強く――最初はなんとなくふわふわした感じだったのが、強いとらわれに変わります。完全にガチッと執着に変わります。つまり、もう完全にそれは無理ですと。これは嫌悪ですね。そうじゃなくて、「もうわたしはそれなしでは生きていけません」と。「もう一日中それで頭がいっぱいです」と。もうそれなしには考えられないと。これが、執着のとらわれですね。つまりこれは、あまりにもその渇愛の、あるいは嫌悪の情報を修習し過ぎたがために、完全に心がそれに結び付けられてしまってる状態ね。
はい、そしてこのような、何かに対する強い――実はですね、この時点で今われわれは、もうひたすら輪廻を繰り返してるから、まだ目には見えないんだけど、多くのとらわれを心に今も持ってるんです。だから修行によってこれを一つ一つ切っていかなきゃいけないんだけど。ね。で、このとらわれが心にあると、われわれが死んだときに困ります。なぜ困るかっていうと、つまり、われわれが死んだときに、表面的な意識っていうのはすべて消えるから、深いところに、潜在意識にある情報がバーッて出てきます。で、だいたいみんなとらわれを持ってるんです。これはね、小さなとらわれから大きなとらわれまでいっぱいあるんです。
これは前にもちょっと言ったけど、小さなとらわれの例で言うとね、例えばわたし、昔そうだったんだけど、よく学生時代とかね、そうですね、ご飯を食べるときは、味噌汁が付いてないとやっぱりおかしいと。あるいはやっぱり日本茶がないとおかしいと。緑茶がないとそれはちょっとご飯とは言えないと。ね(笑)。だから、まあ、ちょっとおやじっぽいけど(笑)、ご飯食べてるときとか、あと食後とかにね、学生時代はもちろんお母さんがご飯作ってくれるわけですが、お母さんがお茶とか出してくれないと非常に、怒るっていうよりは、ちょっとあり得ないっていう感じだね(笑)。自分のその食事をするっていう心がそれでは満足されない。これは一つの小さなとらわれです。小さなっていうのは、例えばそんなことは、そうですね、ちょっと、一カ月でも環境変えれば消えるかもしれないからね。それは小さなことなんだけど、でもそれもとらわれなんだね。で、そういうものから、例えばもうちょっと大きなね、ものすごい、例えば恋人とか家族とかに対する強い執着であるとか、あるいはプライドのとらわれとかね。「もうわたしはこれをこうされたら、もうわたしは生きていけません」とかね。こういうのがみんなあるわけだね。それは気付いているかどうかは別にして、心の中にいっぱいあります。
で、これが、いつも言ってる、一つの絆になるんです。絆っていうのは悪い意味での絆ね。われわれといろんな低い世界をつなげてるんだね。例えば今の例で言うならば、ご飯食べてお茶飲むことに執着してるとしたら、そうですね、それがある世界、つまりそういった人間的なね、人間界に結び付けられるか、もしくはその食べ物という点で餓鬼界に結び付くかもしれない。もしくはね、すべてはなんていうかイメージだから、動物になるかもしれないよ。例えばね、動物がいますよね。犬がいるとしてね、犬がドッグフードとかをガツガツガツガツ食べてると。で、水をペロペロ舐めると。それはさ、人間のカルマを持ってるわれわれから見てるからそう見えるんだけど、犬自体はそう思ってないかもよ。犬自体は、普通の人間の食べるようなものを食べて、で、お茶飲んでると思ってるかもしれない(笑)。すべては幻影だからね。だからわたしの中でその幻影が、ちょっとわたしが徳がなかったら犬に生まれて、ご飯食べてお茶飲むっていう幻影をね、そういうかたちで満足させるかもしれない。で、その中身は別として、それが高いものか低いものかは別にして、とにかくわれわれの中にそういうとらわれがあると、当然、そのとらわれを実現するための、現実的な世界、つまり存在の世界に魂は結び付けられます。これが有っていうやつなんだね。
そして存在の世界に結び付けられるから、当然、われわれはその世界に生まれなければいけない。これが生、生まれるっていうやつですね。
そして、生まれて、苦しみを味わうと。なんで苦しみを味わうのかっていうと、つまり、そもそもが間違ってるからです。ね。そもそもが――つまり逆の言い方すると、この世に実は幸せっていうのは一つしかないんです。それは、心の本性です。われわれは心の本性に目覚めることしか、幸せってないんです。だからその他のものっていうのはすべて偽りなんだね。
これはだからわたしがよく言ってる、皮膚病の例え。皮膚病になりましたと。「皮膚病ですね。それは掻かないでください」と。「掻いたら治りが遅くなります」と。「でも掻かずにはいられないんです」と。「いやあ先生、掻いてしまいます。だって掻くと気持ちいいんです」と。ね。この気持ち良さが、われわれが言ってる幸福なんです。でもよく考えてみてください。そもそも、病気である時点で幸福じゃないでしょ。ね(笑)。これが、われわれが無明である時点で幸福じゃないよっていうことなんです。無明である時点でもう幸福じゃないんですよ。しかしその無明の中で、その無明から生じる苦しみを、一時的に和らげること――これをわれわれは幸福って言ってるんです。
よく考えてみましょう。なぜわれわれは、恋人を求めるんですか? なぜわれわれは、おいしい食べ物を求めるんですか? なぜわれわれは、例えば称賛されたいとかそういう状況を求めるんですか? それは幸福じゃないからでしょ? つまり、幸福だったら、求めるものなんてないんです。しかしわれわれは求めずにはいられない。っていうことは、幸福じゃないんです。これに気付かなきゃいけない。だから、もうありありと現われた苦しみだけではなくて、もうそもそも苦しみなんだと。そもそもこの間違った世界に生まれ出てしまったことが苦しみなんだと。もう一回言うけどもそれは、皮膚病を掻いたときには気持ちいいけども、そもそも皮膚病自体苦しみだろというようなもので、そもそもこの世は苦しみなんだよと。これが十二縁起の法ですね。はい。で、これを、この詩は表わしていると考えてください。
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